インターネット日記11 



9月の日記


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1999.9.22〜PCコミュニティ〜

昨日は、僕が使っている東芝のRupoというワープロの文書をiMacに取り込める方法、そういうソフトはないかと思い、セガ伝言板の「PCソフト」に書き込みをしてみた。
すると、Mach-speedさんという人がレスをくれた。

ところが、そのソフト(Rupo→IMac変換ソフト)はフリーソフトでタダなんだけどiMacでは動作しないことが 判明。またレス返したら、68Kマック(CPUにモトローラの680XX系CPUを採用している第一世代のMacのこと、中古で沢山、出回っている)なら動作するらしく、68KマックエミュレーターのVMacというフリーソフトがあるという。

そして、そこに行ってみたが・・・・英語のサイトなので解りません・・・今は、フリーの翻訳ソフト探しています。
悪銭苦闘中・・・・なんか泥沼な感じ・・・・・。

もうひとつの方法としては、68Kマックを購入して、ネットワーク(イーサネットというが、なんと68Kマックの頃からそういう装備があるらしい。だから、中古買ってきても繋げるのだ。ネットワークを組むことを前提にしている、Macの先進性に脱帽)で繋いでしまえばいい。

それにしても、そんなソフトとかをボランティアで作ってしまうPCコミュニティというものに僕は感心してしまった。
親切に、こんなマイナーな書き込みにレスくれるのも凄いのだが。
この掲示板の話題も、マニアックなので面白いので、当分、通うことになると思う。

話は変わるが。
かつてのDCリンクのウェブマスターだったkazsonicさんが
この程、販売中止のソーテックのe-oneを購入しているのには笑ってしまった。注文したばかりなので、商品が来るかどうかドキドキだという。幸運を祈るが・・・ 来ないかもね。
さすがにそれはないか。


1999.9.20〜予言〜

小説書いているが、最終回なのでちょつと苦戦中。
納得のいくものを書くのは大変だと痛感している。
明日、辺りには完成予定?

今日は、数日前に日記で売れると、予言しておいたモーニング娘の「LOVEマシーン」という曲がオリコンチャートで
1位になったことについて考えてみる。
歌番組も総なめという感じで、ここ一週間は、どの歌番組でも必ず「LOVEマシーン」が歌われている。

短期間であったが、これも予言のひとつと考えると、なぜ、その予言(予想?)が当たったのだろうか。

僕が「ASAYAN」というモーニング娘を生んだオーディション番組が好きで、各種情報に精通していたから。
それと、今まで曲を聞いてきた「同時代的感性」によれば、この曲は売れると思ったからである。

ま、今までモーニング娘の曲はオリコンチャート初登場5位以内に常に入っていたし、この時点で8〜9割ぐらいは「売れる」というのは誰でも予想できるし、今回の曲の勢いから1位になることは予測はできた。
最終的な決め手としては、同時代的感性の問題になるが、売れると思えば売れるし、売れないと思えばやはり売れない。
ちゃんとヒットチャートの曲を聴き続けていれば、自ずとそういうことは解ってくるものだ。

ということで、解る人には99%ぐらい予測のできたことだったのだ。 具体的には感情が揺さぶられる曲かどうか、というのもが判断基準になるのかもしれない。曲でも歌詞でもいいのだが。

それとは別に、世の中には予言というものがあって、これが実によく外れる。
ユダヤ教などでは、イエス・キリストはダビデ王から数えて12(ユダヤ教では12は聖なる数だから?)代目の王だから救世主に違いないとか、そういうことが言われたりした。

この内容はともかく、ユダヤ教では予言は「計画の予定」みたいなもので、外れるとまた、計算し直したりして無理矢理に辻褄を合わせたりする。
なんとなく箔をつけるために「預言」などと言われたりしたから、そもそも外れるのが当たり前なのだ。

今回のモーニング娘の時の僕のように、特定の情報を持っている人間には、「預言」(正確には予測)できる場合もあるし、三国志の諸葛孔明のように気象情報を知っていれば、赤壁の戦いの時、風向きが変わることも予測できる。

それ意外にも、預言をすることによって世論、情報操作などを行うこともある。
例えば、「ビートルズのヒット」は完全に意識下に働きかけるサブミリアル的な仕掛けがあったようだし、栗本慎一郎によれば、広瀬隆の「あぶない話」による原発反対運動もあるグループによる噂による世論操作のシュミレーションではなかったのか、と言われている。(考え過ぎな気もするが)

ポヶモン騒動も光による脳の直接コントロールの可能性を指し示しているし、臭い、音(そもそも音楽ほど僕らの感情を揺さぶるものはないだろう。単調な音の繰り返しが、催眠術の導入に使われることは良く知られている)によって色々と僕らは情報操作を今、現在も受けている。

うわさ・・・オーバーハードコミニュケーション法と言って人間は正面からの説得には強いが、小耳にはさむ、とかの噂による情報操作に脆い、という性質がある。

という訳で、そもそも「予言」とは計画であり、予言は各種の世論、情報操作により「成就」されるものであり、よく外れる、外れるのが当たり前でもあるのだ。

メディアによる情報操作の実例は、『メディア・セックス』(集英社、植島啓司著)に詳しい。


1999.9.16〜日記でも書こう〜

寝てばかりで、掲示板にレスもつけていない。
sakazakiです。
今日はとんとんとんと短かめにまとめたいと思います。

この日記もかなりのボリュームになってきたので、他のサイトのようにタイトルつけ直して、コンテンツのひとつにしてしまえばいいのだが、検討しておこう。タイトルつけると自分の関心のある分野だけよめるからいいんだよね。僕の場合タイトルだけじゃ内容がわからんが。

それで、PS2は画像は凄いし、楽しみだけど、昔、「互換性があるから素晴らしい」とか書いたような気がしたが、良く考えたら「PS2用のソフト〜例えばFFとかDQ〜のキラーソフトが出たら、PSじゃできんからPS2買うしかない」ということにいまさら、気づいた。

そう、結局、下位互換が実現しても、今までのソフトが無駄にならないとしても、PS2の凄まじいレベルのソフトが出てしまったら、そんな昔のソフトをやりたいだろうか。
もう、スーパーファミコンのゲームをやれない体質になってしまった僕は、PS、そしてPS2へと身体を慣らされてしまって、企業の陳腐化政策に乗せられていくのです。

そうなるとどうなるのか。
PS2を頂点として、ゲームメーカーにもついにというか、役割分担、いや、階級、クラス、グレードのようなものができてしまうのではないか。
大リーグのように3Aがポケステ、2Aがゲームボーイとかワンダースワンの携帯ゲーム、1AがDC、PS、64だろうか。そして、メジャーはPS2である。
スクエア、カプコン、エニックスあたり、資金力のある上位10社ほどが、PS2で制作して、でも、そのクラスでもソフトは1年に数本ぐらいしか出せなくて、PS2で作るにはソニーの審査に通らないといけないという話もある。(未確認)
そうなると、意外とドリームキャストなどの1Aに野心的なソフトが登場することがあり得る。
PS2では映画制作するようなコストがかかるからだ。億単位の制作費になるかも知れない。
だから、今回のPS2は最初、ソフト不足になるかもしれない。Nintendo64みたいに。資本力が備わっていないといけないので、そんなに多くのメーカーが参入できないからだ。

でも、ソニーが制作環境、機材を揃えれば話はちがってくるが。若い才能は、意外と携帯ゲームあたりに現れるかも知れない。

ま、そんな訳でPS2の出現は、今までのようなゲーム機の世代交代とは一線を画したもので、性質の違うものになるかもしれないということだ。
この隙に、といってもないかもしれないが、セガはチャンスかもしれない。
そして、 PS2はフルデジタル3DCGとかの発表のメディアになる可能性も出てくる。


1999.9.14〜出来過ぎた話 思想編〜

そういうことは時々あるのだが。
昨日の日記で取り上げた「think or die」に対して、僕が、何故、あんなに批判的なのか、ようやく分かった。

彼はどうやら、フランスの思想を基盤としているらしいことが、プロフィールで判明。僕が自分の掲示板で彼のエッセイについて「腐ったフランス料理」と例えたけど、奇しくもそれはずばり正解だった。
直感とはおそろしいものだ。

僕はと云うと東欧ハンガリーの都市ブタペストを起点とする思想の流れ、エルンスト=マッハ(アインシュタインの相対性理論の思想的基盤「相対的認識論」を唱えた)〜カール・ポランニー(経済人類学)〜マイケル・ポランニー(暗黙知理論)〜栗本慎一郎(経済人類学)〜ラインをバックボーンとしている。

実はロシア〜東欧〜ドイツ〜フランス〜アメリカという風にユダヤ人が移動していく度に、その土地土地で学問と思想の花が咲いて行ったという歴史的事実がある。
それは、例えるなら、闇の都市から光の都市へと、しだいに移っていく過程でもある。それに伴って、学問、思想的スタイルも変化がある。

ハンガリーのブタベストは、フランケンシュタイン、ドラキュラを生んだ闇の都市 「トランシルバニア」にも近く、思想的にも無意識的、根源的、深層的である。
だから、思想的にも、人の身体性というものをとても重視する。頭というよりも身体で感じたり考える学問が生まれた。
無意識、生物の基盤である遺伝子を重視した。

それに対して、フランスでは過去の流れから、最近、フランス構造主義というものが生まれている。
これは、簡単にまとめると(まとめすぎだが)、でたらめな神話のような物語にも、幾つかの法則生が発見できるとしたもので(現にそういう研究が発表されている)、一見、ランダムな無意識にも何らかの法則生があり、理性でもって解明できる構造があるはずだ、というものである。

理性重視、理性により無意識を押さえ込めるという思想でもある。 あまりに西洋的すぎる気もする。
身体で感じるのではなく、頭で考えることを重視する。

という訳で、ほとんど立場的に対極だとも言える。

僕に言わせれば、知ることを、理性を重視することは構わないが、それに無意識に構造、法則生があることも認めるが、
それで無意識、自然をコントロールできると思ったのがそもそもの間違いのような気がする。

知識を詰め込むだけ学校化社会。
未知の、理性で割り切れないものを排除してしまう監獄化社会が生まれたのも、この思想が世の中の主流になってしまってからだ。
学校の最大の欠陥は、思考法そのものの伝達が欠けていることだ。誰も、勉強の仕方を、物の考え方、思想を教えない。
そういう授業もない。

かつて、教育とは師匠から弟子に、身体によって覚えるという方法で伝えられた。体得というやつだ。
それは思想、思考法を師匠の立ち居振るまいから学ぶ方法でもあった。

そんな訳で「think or die」について、高級な感じがして、少し頭の良くなった感じがするが、実は中身がないという内容だと僕が思ってしまうのは、根本的に姿勢が違っていたことが判明した。
まったく、出来過ぎた話だ。

でも、これだけ批判するのだから全て読んでみないとわからない。すでに十数編、読み終わったが、なんとかキラリと光るものを見せてほしい気がする。

頭だけで表層的な思想では無理かと思うが、彼自身の個人的生理が文章に表れれば、あるいはとも思うが、非常に筋が良いのに惜しい人だ。
無意識、身体の声を聞ければなぁ。こういう考え方は、しかし、今の社会では主流ではないから仕方ないかもね。


1999.9.13〜エッセイ〜

「think or die」というエッセイのサイトを「ねり」さんから紹介されて、覗いてみた。

この人はおそらく、相当頭が良く、文章力もあり、教養もある、気の効いたものも書けるだろう。
事実、なかなか読ませるものもあった。

でも、何故か、僕には何かが「間違っている」と感じた。
何故なのか、すぐには解らなかった。
あるいは、僕の嫉妬ではないかとも思った。
相手は13万ヒットの有名サイトであるし、感想も一杯、寄せられている。
それもあるかもしれないと思った。

でも、それだけではない何かがあると、どうしても思える。
何だろう?

結局、そのエッセイは管理人の優秀さを示しているにも関わらず、その問題意識が平凡すぎ、理論の展開にもまっとうで今までの考え方に何か革新的な見方を提供するものではないからだ。
それゆえに、多くの人に共感をもたれるエッセイでもある。
「竹村健一の本」「窓際のトットちゃん」と同じだ。

例えるなら、ちょっと知的でかっこいいというスタイルに過ぎない。読んだ人にそういう気分を味あわせる。

それもいいだろう。そういう世界もあるだろう。
でも、「どうでもいいこと」を語ったところで、何になるというのだろう。
役に立たないもの、どうでもいいこと、それが、文化というものなのだろうが、 あまりにも・・・・・・・ま、エッセイだから仕方ないか。

ただ、 何故、あの程度の問題意識しか持てないのか。
頭で考えるのではなく、身体で感じて思考する。
思想を血肉と化して欲しいと思った。

だけど、かえってあの人は、それゆえに幸せでいられる。
知らないが故に。
それでいいのかもしれない。
それが普通の人間だもの。

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