インターネット日記15 



10月の日記


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1999.10.15〜躁病と鬱病と文章表現〜

そもそも僕が何故、サイトなんか立ち上げようかと思ったかというと、昔、5人ぐらいで作った同人誌をデジタル化して保存しようと企んだからだ。

でも、初心を見失ってしまって、長い間、忘れていた。
今では日記を書くのが生業となりつつある。
小説サイトではなかったの?とか、その前は、脳とウィルスと思想、哲学サイト(SKY HOME PAGE DC〜トップから、さりげなくリンクがあるのだが、解りにくい)ではなかったのか?と思いもするが仕方ない。

劇団第三舞台の鴻上尚史氏によれば「創作とは変化球を投げることだ」というが、日記とか、ノンフィクションはそういうことだと直球になる。
ストレートは何かと投げやすい球種である。
誰でも投げれる。
そのうち、変化球の投げ方を忘れてしまうのではないかと思ってしまう。
ストレートだけでは試合に勝てない。
剛速球投手になるという手もあるが。

そもそも、僕は、てんかんだった(幼い頃に発作があったらしい)ので性格的には躁病気味のはずだ。
「脳の中の幽霊」という本によると「(側頭葉てんかんの)患者は情動が強まり、ささいな出来事に宇宙的な意味を見いだす。彼らはユーモアに欠け、ひどく尊大で、毎日の出来事をことこまかに日記につける傾向(過書字と呼ばれる特徴)があるとされている」だそうだ(爆)

いかん、全部当てはまっているじゃないか。
特に「過書字」というのには笑ってしまった。僕にとって文章を書くことは生理現象に近いと云うことか。
それで書きたいことがいろいろ湧いてくるのか。
それと躁病の人の脳の傾向としては、脳内麻薬の過剰分泌があり、ドライブドライブというか、下手をすると落ち着きと集中力がなくなってしまうようだ。

これが高じると、多動症(落ち着き、集中力なく学習障害になる)になり「自閉症」という病気、というか、体質になってしまう。この場合の自閉の意味は他人とのコミュニケーションがとれないということだけど、言葉がしゃべれない、自傷、奇声を上げるなどの症状が表れる。
夜中も眠らずに騒いだり、はしゃいだり、にぎやかな場合もある。

これは麻薬を大量に打たれているようなものなので、自分を制御できなくなるということだろう。
僕の人生の課題は、自分を抑えて集中する、言い換えれば、セルフコントロールということになる
あと、躁病系の人は浪費家の傾向がある。
お金が貯まらない。これも当たっている。
仕方ないから財形貯蓄をはじめてしまったほどだ。天引きしないと使っちゃうからなぁ。

そうなると、鬱病系の人はまったく逆なので、文章を書かせたらどちらかというと短くなるはずだ。
しかし、どうもそうじゃ無いことが多い。
おそらく躁と鬱が交互に現れるからではないかと思う。
鬱だと、文章を書く気力さえ起こらないだろうし。

さて、躁病の状態が文章を書くことに向いているというのはどうも確かなようだ。程度によるが、逆に何を云っているのか解らなくなる危険性もないことはない。

脳内麻薬の過剰分泌は、幻覚と云うか、想像、妄想力の源になる。脳内麻薬は神経伝達物質という脳内の情報を伝達する物質で、麻薬と成分がほとんど同じである。
鬱病の人が治療のための薬(やはり、麻薬と同じというか、そもそも精神病の薬とは麻薬物質である)を飲むのも、仕方ないとは言え、麻薬中毒のようなものなので大変、創造的になる。
それに落ち込んだ時に、普通の人が気づかないことに気づくというメリットもある。世界を見る視点が独特なものになるので、その点も有利だ。
鬱病の人に優れた文章書きが存在するのもうなずける。
槙原敬之などのミュージシャンが麻薬に頼るのもそんな理由によるのだろう。

という訳で、躁病で躁病でも文章書きには向いていることになる。鬱病の場合、多くは自殺してしまう場合が多いが、これは文章を書く作業が自分自身を見つめるものなので自己嫌悪に陥りやすいからだ。

最も向いてないのが、普通過ぎる人で、冷静な見方ができるのだが、ノンフィクションとか、エッセイならいいかもしれないが、文章を書き続ける原動力に欠け、続かなくなるからである。

躁病は文章書きにむいてるのだろうけど、天然の麻薬中毒患者(お金がかからない)なので彼らの言動を信じてはいけない。結果的に嘘つきだし。
彼らの見分け方は結構、簡単だ。
いつもにこにこしているからだ。(僕もそうだけど、よく考えれば異常。脳内麻薬のせいです。ははは)
でも、笑いの背後に狂気が潜むこともお忘れなく。



1999.10.14〜細田さんについて〜

細田さんて誰だ。
と云われそうだが、Read Meという読み物系ランキングサイト?に行って、10位ぐらいをみればそこにいることが多いと思う。

あがるたさんも彼のサイトを評して「なんというかホソキンズルゥムって 単なるサイト批評というより、氏を取り巻く他者の感情を 楽しむ批評エンターテイメントという感じがします(えらそう) 」(何でも掲示板より無断引用)とおっしゃってます。

Yahoo!とかに登録されない人のために、何か登録できるサイトとか無いかなと思ってRead Meに辿り着いてはいたが、登録は最近であった。
細田さんは「Read Meのサイトの批評」をしている人であり
なかなかこれが面白い。

●アクセス解析を利用しての「細田さんのサイトに言及しているサイトのリンク」という晒しものの刑。
●Read Me登録サイトの辛口批評(本人の好みという基準による)。かつては点数評価5段階とかあって、1になったサイトの管理者は……感情豊かになったみたい。
● 本日の言葉と云うコーナーで、その日、彼の心を捉えた1文を勝手に?引用しているコーナーとかがお薦めです。

ま、まだ、よく見て無いけど、細田さんの批評を心待ちにしている人もいるだろう。
いやーぁ!という人もいるだろう。
でも、結局、批判されたとしても、いちいち言い返しても仕方がない。

例えば、作家の人はそんなことをいちいちするだろうか?
文章を、例えWeb上だとしても誰もが閲覧できるようにしてしまっているからには、そういう批判は仕方がないことでもある。
受け止めるしかない。
むしろ、誰に見られても恥ずかしくないプロポーションを作り上げるしかないのではないか。(栗本薫小説道場より)

ま、あまりまともに受け止め過ぎて、腕が折れるとかしたら大変だから(剛速球だったんだろう)適当に躱しましょう。
しかし、他人事のうちは面白いけど、自分の番が来たらどうなるのでしょう。
あなたも勇気を出して登録してみて下さい。
健闘を祈る。



1999.10.14〜同性愛と本当の問題〜

ビートたけしの「ここが変だよ日本人」を見てたら、同性愛の人たちが、例によって外国人と論争をしていた。

そんな中で、パキスタン人(アフリカ人数人と)が自分の息子がホモだったらどうするかと云われて、もし、そうだったら「殺す」と云っていた。
それを聞いたゲストのラモスは、本当にそうするのか、と何度も冷静に問い質した。
それでも、そのパキスタン人はそれでも「殺す」というのでラモスは切れた。彼が子供を大切にすることはとても有名だし、これは仕方ないだろうと思わせた。

テリ−伊東は「テレビ的に面白おかしく云ってるだけだろ」
と批判した。でも、彼と数人のアフリカ人たちはそれでも、「殺す」と言い放ち、ついには興奮して同性愛者に殴りかかろうとした。どうも本気らしい。
何とかそれは阻止されたが、同性愛者達は「そんなんだから文明が低いと云われるんだ」とやり返した。

残念ながら、それは当たっている。
ある程度、社会が成熟しないとそう言う問題は闇に葬られるから決して表面化しないからだ。
でも、これは大した問題では無い。
ゾマホンは「どんなに意見が違っても、暴力はふるってはダメだ」と当たり前であるが的確な言葉を放った。

さて、この問題はかなり深刻な問題を含んでいる。
だけど、誰も「本当の問題」に気づいていない。

この問題は、経済人類学者、栗本慎一郎の処女小説にして最後の小説である「反少女/敵意」にこっそり問題提起されているのだが、小説にでも書かないと書けない内容であり、おそらく、理解するのがおそろしく困難な問題である。
しかも、普通なら問題を立てることさえできないものだ。

だから、僕がこれから云うことを理解できなくてもがっかりすることはない。
同性愛について嫌悪感を抱くのは生物として当然の反応だ。
しかし、それは生理的感覚や今までの文化の中で「理由も解らずに制度化されている」常識に従っているだけだ。
まあ、遺伝子に都合のよいように、人間はそういうことを禁止していると云ってもいい。

だが、アメリカや日本のように同性愛は差別されるが、そうすることをある程度、認める社会も現れている。
これはどういうことか?

ぶっちゃけてしまえば、神(=宇宙の法則、システム)は感覚器官を支配することにより人間を支配している。
それ自体悪いことでは無く、そういう基準がなければ、人は善悪、好き嫌いを判断することは出来なくなる。
だけど、やはり、その基準が僕らによって決められているのでは無く、他律的に勝手に決められていることは事実だ。

だから、本当に戦わなければならない相手は神であり、そういうシステムの仕組みを研究しないといけないはずだ。
パキスタン人の反応は、そのシステムに素直に反応しているだけだとも言える。
でも、僕が疑問なのはシステムから逸脱する人々、同性愛者や僕のような個体を、何故、システムは許すのかということだ。
さらに云えば、何故、意識をもった人類などというものを生み出したのかがさらに大きな疑問だ。
無意識のまま、自然のシステムに従って生きていた方が人類にしても幸せだろうに。
ただのエラーなのだろうか。

ま、鬱病とかも突き詰めれば、脳が鬱病に罹りやすい体質なのが潜在的原因である。その人が悪い訳ではない。
その人たちは、ただたまたま、そのような身体をもって生まれてしまっただけだ。
そう言うことを含めて、どうしてそのようなことが起きてしまうのか。
そういうエラーを起こしてしまう神とは何か、ということを考えてしまった。
宗教を信仰している人たちも、何故、神はそのような矛盾をわざわざこの世に「用意しているのか」、もう少し疑った方がいいのではないか。

さて、それではどうすれば戦うことができるのかというと、当たり前だけど、勝つことなどは出来ない。
でも、負けなければいいのだ。

あのパキスタン人は、自分の中で敵意が暴力衝動に変わるのを止めることは出来なかった。
かれは意地になっていたかもしれないが、あの瞬間、まずいことを云ってしまったという意識はあっただろう。

戦いが無くならない理由は、そのようなシステムが生物の個体数の調節に貢献しているからであるが、そういうことを意識しつつ理性を捨てずに、神というか宇宙の法則によって操られる人形としての「人間存在の悲しさ」をまっすぐに見つめる視線こそが、実は必要なのではないかと思う。

そういうまっすぐな視線、透明な視線、理性の力をもって、
暴力衝動を抑えることこそが本当の戦いであり、負けないことだと僕は思う。
人は悪いこと、まずいことをしていることを実はいつでも知っている。
知っていながら道を外れる。
そこで踏み止まれる「素直な心」こそ、最強の武器であり、
最大の知恵であることを知ってほしいと思う。

神と云うかこの世界はそういう「正しい知恵の使い方」をすれば、かなりの問題が解決するはずだが、「素直」とか「正しい」 という状態がなかなか難しい。
しかし、人間の中にはそういう共通の基準があり、自分に問いかけさえすれば答えは必ず見えてくる。

全てはすでにあなた自身に備わっている。



1999.10.12〜iMac DVとPS2〜

ついに、来るべき時がきた。
僕のiMacが時代遅れになってしまった。
7月13日に購入(小説コーナー『僕のiMac』によると)した愛機は、たった3ヶ月というあまりに予定通りの型落ちの洗礼を受けてしまったわけだ。

でも、ネットやるのにそんなに不自由はないし、十分なスペックだし、時々フリーズするけど、それはほとんどマイクロソフトのIEがマックのOSを道連れにするためだということは解っている。
長時間、インターネットしている時にIEがフリーズすることが多く、ほとんどIE絡みのフリーズばかりだし。
どうも、IEはOSとの親和性、一体化が進んでいるために、そういうことがあるらしい。
真剣に、NCに鞍替えしようかという考えが頭をよぎる。

さて、今度のiMac DVについてだが、どうもソニーを意識しているというより、はっきり云えば、いい意味でソニーのパクリである。

DVD搭載ははPS2の先取り、FirewireはiLINKと同じ技術であるIEEE1394というものだし、ビデオ編集に使用するというのも(USBではデータ転送速度が遅すぎてビデオの画像は取り込めなかった) 似ているし、パソコンを目的別に特化していくというコンセプトも同じだ。

そもそも2つの企業は似ているし、バンダイの「ピピン@アットマーク」(MacOSを搭載、インターネット接続できて、
Macのゲームなどもできたが、専用のゲームソフトで遊べるのが「ガンダム」しかなかった。ソフトというのは大事である )のようなマルチメディア端末が失敗する理由は、何でも出来るが何をすればいいのか解らないからであった。

だから「PS2はマルチメディア端末である」とソニー本社が主張しても、子会社であるSECIはあくまで、「ゲーム機である」という主張を曲げなかった。
今まで「マルチメディア端末」と呼ばれるものが沢山、発売されたがことごとく失敗しているのは、そういう使用目的のあいまいさが原因でもある。
実は日本人も含め、本当に自主性がある人間と云うのはひとにぎりで、この機械はこんなことに使って下さい、使えますよという提案がないと「何をしたらいいのか解らない」という人はあきれるほど多いのだ。

そう、PSはゲーム機に機能を限定したために、操作も簡単だったために、PCとは較べものにならないほど普及したのだ。

話を戻すと、パクリと云う言い方は不適切かもしれないが、言い直せば、お互い意識しあっていて、その企業風土も似ていて、その結果、明確なコンセプトとして「PCを何に使うべきか」という提案が生まれたのかもしれない。
形だけを模倣するSOTECには、優れたコンセプトや精神を取り入れるというこの姿勢を見習って欲しいものだ。

SCEIは今ではメジャーであるが、セガがマイクロソフトと提携するというメジャー志向であるのに反して、意外とLinux
を開発環境とするPS2で解るように、さらにチャレンジャーとしてマイナー(サブカルチャー)路線を突っ走ろうとしている。
相変わらず「ゲームやろうぜ」という独立を目指すゲーム開発者、素人にも、PSゲームの開発のための道を残しているのも斬新である。

MacもiMacを起爆剤として、次世代インターフェース(機器接続規格かな?)であるUSB接続機器の普及に貢献した。
今度は、G3、G4の上位機種で導入されているより高速なデータ転送速度をもつFirewireを広めようとしている。
おそらく、これもまた成功するだろう。
ゆくゆくは、Firewireポートだけの新型iMacも登場するだろう。業界の統一規格を作り上げようと云うのだ。

ソニーのiLINKもPanasonic(松下電気)のLet's Noteで採用されているぐらいなので、この2つの企業が世界基準の接続方法を確立しつつあるのは確かだ。
そういう模倣ならいい。
できれば、無線通信でコードレスインターネットができる技術であるAirport(iMac、iBookでオプション装備可能)も
早く真似してほしいものだ。
問題になるだろう盗聴防止のための暗号化技術も採用されている優れものであるが、そのうち、ラジオライフ(僕はよく知らないが、盗聴、盗撮などの方法とかをよく特集しているらしいアングラ雑誌)あたりで特集とかが組まれるかもしれない。

新型iMac DVは、インターネットに加え、ホームビデオ編集
(ビデオ編集ソフト「iMove」を)とか、DVDの普及、コードレスインターネットという新しい提案をしている。
iBookを買うつもりだった人は、こちらを買った方がいいと思う。
2台目のマシーンとして買うなら、来年あたりに、より高速な次世代CPU G4が搭載されるだろうからそれからの方がいいかもしれない。

僕はお金も無い(当分、周辺機器の充実にいろいろ費やすだろうから)ことだし、どちらにしても来年になる。
しかし、そんなに何台も買ってどうするのだろう。
僕もすっかりMac中毒患者になってしまったということか。
そういう気持ちにさせるマックって何なのだろう。


1999.10.11〜思い出と「終わりなき日常」〜


昨日は、東芝ワープロルポの文書をiMacに取り込むにはどうしたらいいのか考えていた。

昔、書いた小説でもアップしようと苦肉の策だったが、旧型マックならば、フリーソフトで取り込めるのだが、iMacでは、新しいゆえにそのソフトが動作しない。
それで、スキャナー購入に踏み切った。
まだ、使い切れてないが、どうやら文字読み込み専用ソフトがあり、これで、レイアウトとか修正できるらしい。
現在、研究中。

実は、スキャナー購入の後、NTTクレドというところで懐かしい「インドカレー屋〜タンド−ル」に寄り、ナン&チキンカレー&マンゴジュース&シシカバブ−&タンドリ−チキン&サラダ&サフランライスなどという……ディナーセット2500円などを食べた。
何故かお土産にナン(カレーにつけて食べるインドのパン)を一枚くれた。
70センチもある巨大なパンだ。
たぶん、暇そうだったのでランチタイムの残りだろう。

何故懐かしいかというと、僕の知り合いではelallさんしか解らないと思いますが、群馬県高崎市の環状線にデニーズ(大八木あたり?)があり、その裏にある飲み屋で、僕は夜な夜な客なのに女装させられていた店があった。
そこのママがおやじに男装するのでつき合わされていただけなのだが、そのもう少し奥にやはり「インドカレー屋」さんがあった。

僕はそこに行くのが好き(女装の飲み屋ではないよ)で、週末には「とんかつや」とともによく行っていていた。
そこは4〜5才年上の悪友の女の子ふたりによく連れていかれていたところで、名前はJunkoちゃんとNobuちゃんとしておこう。
彼女達は普段は、伊香保温泉とかでコンパニオンのアルバイトしていたり、怪しい訪問販売のアポインターしてたりとかして、僕はよく飲み屋とかにいつしょに飲みに行ったりしていて、いつもNobuちゃんの愛車のシティで僕は拉致されていた。

いわゆるふたりはイケイケで、不倫している彼氏が結婚してくれないので、身体だけが目的なのかなと悩んだり(きっとそうだと思う)、彼氏と不仲で家出中とか(彼氏の家が君の家なのか)よく相談を受けたりした。
しかし、そのパワーとタフさには怖れいっていた。
つき合うのはなかなか大変だったのだ。
そんな中、ふたりのどちらとも、もう少しで彼氏彼女の関係になりそうになるという「危機」を乗り越えて、3人で遊んでいた時が一番楽しかった。

しかし、彼女達が何故イケイケなのか考えて見ると、すでにその時「終わりなき日常」という成熟社会の足音が日本に忍び寄っていたのかもしれない。
僕はその後、失業を経験して、何もすることがなくてお金がない状態の退屈さをいろいろ経験した。
それは彼女たちの状態に近かったのではないかと思える。

会社勤めでは解らないことだが、そういう退屈さに耐えるのはかなり大変なことだ。
だから、彼女達は週末にはあんなにパワフルで、馬鹿騒ぎしていたんだなと、ようやく解ったような気がする。
彼女達は彼女なりに、必死で生きていたんだと思う。

世界に終末は訪れることもなく、だらだらと何の変哲もない日常が続いていく、それに耐えるため、暇つぶしだけど楽しい様々な遊びをする。
そんな成熟社会化がもたらす「終わりなき日常」を生きていく工夫を、すでに、彼女達は始めていたのではないかと思える。

その頃、すでにコミニュケーションスキルを駆使するコギャルの援助交際や、あるいはオタクとして自閉化する「適応」が進行していて「エヴァンゲリオン」が適応し損ねた「中間層」を癒して大ブレイクした。

しかし、こうすれば幸せになれるという幻想によって人は生きているのだけど、それが不況によって、日本の成長神話があいまいになって確固たるビジョンが消えていく。
いっそ、戦争でもあればいいのだけれど(戦争時、精神病が最も減少する。目的がはっきりしているので)、それはそれで新たな危機的問題をもたらしてしまう。

さて、インターネットでもしながら、現実の自分とは違う人格を獲得するのもひとつの適応の形でもある。
自閉しつつ、コミニュケーションを求めるという奇妙な適応だが、それもひとつの手段としていいとは思う。
要は楽しければいいのだけれど。

「楽しい時を過ごす」というのがこんなに重要な時代はかつてなかった。
この「キツ」さを乗り越えるために、麻薬の自由化とか、少々変態的なセックス(彼氏を許してやろう)は認めるとか、必要かもしれない。

女の子たちは勝手に「女同士のパジャマパーティ」などで 、
軽く人生をやめない程度に、麻薬を使って心を開く手段にしている。アメリカインディアンも大事な話はマリファナみたいなものを軽くやって話をするという。

人類は歴史的に今まで麻薬とうまくつき合ってきた。
現代文明が麻薬を否定する原因は、管理しにくくなるとか、効率の低下ということが起こっては困ると云う経済的理由とコミニュケーションの基礎が崩れてしまうという理由に寄るが、あまり影響しない程度に使用を認めてしまえばいい。

鬱病の人ではなくても、薬がなくてはつらい状況も生まれている。
一体、どうなるんでしょうか?
みんなそれなりに楽しんではいるのだろうけど。

だけど、長いな日記。

 

 

                  1999.10.11




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