【今後の予定ネタ】 〜ソニーの野望/セガとNTT〜 〜ISOと官僚天国/新たなる利権〜 〜至高体験/物理学とトランスパーソナル心理学〜 2000.4.11(火)AM6:45〜東京オフ会〜 昨日は、風邪で高熱が出てくたばってました。 午後から早退して、寝とりました。 子供の頃からそうなのですが、熱ばかり出て、腰と背中が痛くなり、身体がだるく、動けなくなるという例のパターンでした。頭もガンガンしました。 でも、一晩寝たらなんとか治って、薬で熱が下がって、何故か爽やかな朝を迎えたりしました。 不思議なものです。 そういえば、 ともすけさんから電話があり、東京オフ会の日程が決まったようです。 4/11〜4/19の予定で東京に行くそうです。 当たり前ですが、今回はこの日程ではとてもいけそうもありません。 それで、東京に行く時は「出張パック」「ビジネスパック」 などの宿泊プランがいいのではないかと、ともすけさんから 助言がありました。 そういうことには無知なもので、大変、参考になりました。 これだと1週間前に予約すれば、大丈夫みたいです。 それで、次回の東京行きの時は、早めに予約しておこうと思いました。 東京にはいつしか、会いたい人がかなりできて、会えるといいなと思いますが、とりあえず、ぐだぐだ考えてないで行ってみようと思います。 2000.4.9(日)〜日本の社会と人の生き方〜 先輩の話なんですが、桃太郎の話について。 桃太郎には、さる、きじ、いぬ、という部下がいます。 彼らは吉備団子という御褒美につられて、桃太郎についていって、鬼(外敵)を滅ぼす 訳ですが、これが、日本社会の縮図、組織構造だというのです。 桃太郎は天皇を頂点とする絶対の支配階級の象徴、ここを崩そうとすると、信長のように 田中角栄のように、ケネディのように暗殺されます。 日本にとっての天皇は、アメリカでしょう。 この前、倒れた小渕首相は、アメリカべったりでした。 森嘉朗は、良くも悪くも日本人そのもの、共同体そのものなので、アメリカはやりにくい でしょう。 「さる」はその支配階級を取り巻く人々、「きじ」は才能、技術を持って組織を渡り歩 く人々、「いぬ」は普通の人々でしょうか。 「いぬ」に当る普通の人々は、全体の80%ぐらい、大部分がそうです。 あくまで先輩D氏の話ですが、ともすけさんの文章には「さる=支配階級」へと行ける才能と方向性が見えるそうです。 それは悪いことではなくて、ただ、「いぬ」として生きている人々の心もわかった上で、そうなって欲しいと思います。 「いぬ」として支配されたり、利用される人たちを代表してなおかつそういう位置に 行っていって欲しいと。 それで、ニーチェ(読んだことない)が有名なのは、誰もがそういう支配階級になりたい、と思っているからだと思います。願望でしょうか。 「How to」本が売れるのと同じ構造。 漫画「ベルセルク」のガッツが何故、あんなに支持されるのかというと、ただの人間でありながら、「ゴットハンド」という神のごとき力を持つ悪魔に立ち向かうからでしょう。 彼は「足掻くもの」として、獲物として悪魔の烙印を押されても最後まで戦い続けるとこ ろがいいんでしようねぇ。 最初から勝ち目のない戦いですが、戦い続けているうちは負けません(爆)。 僕もやっぱり、そんな人生のような気がします。 D先輩もそう言っていました。 2000.4.7(金)〜眠いです〜 仕事の遅れを取り戻すため、今日も5時出勤さ。 眠いです。まったく。 ゆえに、レスもつけずに行きます。 2000.4.3(月)〜もう、寝ます〜 本日、会社に出勤したら、水封式のガスタンク〜バケツの中にお椀を伏せたようなものを想像下さい〜に穴が開いて、水が漏れてました。 市役所は頭を痛め、直属のボスのS先輩は生憎と休みです。 (この方、事件が発生した時に限って休みですわ) もうひとりのベテランのI氏は頼りになりません。 仕方なく、キャリア2年の私が現場の指揮というか、運転管理を任され「ブレーキのない機関車」のような機械設備の運転に携わってました。 ああ、疲れた。 しかも、明日は朝、3時半起き。トラブルの遅れを取り戻すために僕の判断で早出です。 色々と手配したりで大変でした。 今日、d-planさん(ようやく)、ハリ−さんの投稿小説をあげようと思ったのに、すいません。 あと、掲示板、メールレスなどもできません。 会社帰ってからになります。 では、寝ます。 2000.4.1(土)〜4.2(日) 〜大阪オフ会その後/愛と好きと人生について〜 今日は深い話なので、書いている本人にもよく解ってないかも知れない。 例によって、今日は会社で師と仰ぐD氏と話をしていた。 いつもの悩み相談室である。 ざっきー(まだ、恥ずかしい)「僕も今まで、不思議なことに、好きだと言ってくれて、つきあった女の子も結構いるんですが、最後になると何か自信がなくて踏み出せなくなってふたりとも完全に両想いなのに、僕が最後に拒否してしまうことがありまして、うまくいかなくなったりして…幸せだと不安になったりして、関係を壊してしまうか、逃げてしまう傾向があるんですが…」 D氏「それは、まだ、君が【好き/Likeの世界】から踏み出していないからだ。【愛/Loveの世界】にはいってないようだね」(朝っぱらからそんな話をするな!) ざ「なんですって!(大袈裟すぎです。演出ですね)それはどういうことですか?」 D「仕方がない。元プレイポーイで慣らしてモテモテだった私が解説してあげよう(そんなことは言ってないが、僕の偏見です。でも、よくもてたそうです)。【愛】というのは、 【戦い/バトル】なんだよ 」 ざ「はあ〜(何も解ってないようです)」 D「そもそも、夫婦というのは日々が【戦い】なんだよ。どちらかが進みすぎてはいけないし、差が開き過ぎてもいけない。どちらか考えられる方が目線を落として、馬鹿になって やらないといけない。 引け目がある方が、どうしても必死で努力しようとするし、うちの嫁さんは高校しかでてなくて、私は大学だけど、嫁さんは努力しているよ。だから、私の方が彼女を認めて、わかってやらないといけない。 そうしながら、お互いが成長(無理にする必要もなし)したりして何とかやってくもんだよ。 そうじゃないと心が離れて、離婚したりするしかなくなる。 うまく行かなくなる。 それと、最近の夫婦に関する考え方はあまりに欧米的すぎるよ。日本人は昔から【夫婦は2人で一人前】なんて言って、 お互いの欠点を補いながら、ふたりでやっていくことによってなんとかやっていけたもんだよ。 あまりに個人個人と言い過ぎる。だいたい神様はふたりでひとつということで、男と女を作ったんだよ。お互いが支えあってはじめて力が出るもんなんだよ。 力と言えば、子供から大分、パワーをもらった。普通、できないことも出来た。仕事と家族か、どちらを取るかと言われれば家族を取るよ。 結局、家族の中での【戦い】というのは、お互いに本音をぶつけあって、言いたいこと言いあえばいい。でも、そう言っていても親は子供がかわいいだろうし、子供も親の事は思っている。 そんなことで壊れる家族なら、本音が言えない家族なんて、 家族ではないよ。そうでありながら、外に向かっては結束しているのが家族だよ」 ざ「なるほど(解っているのかどうか不明)」 【戦い】というより共感というか【共生】に近いような気がします。 本音がぶつかり合う状態は【戦い】だけど、相手を解ってやる気持ちは、【戦い】ではなくてどちらかが折れると言うか相手と同化するということなんだろうね。 お互いに解り合うことにより、【そのままでいい】ということに気づくと言う事かな。 それが意外に難しい。 D「それと、人生には三つの時期があると言う。自分の探しのための最初の20年、子育てのための30年、50才から20年は誰かを育てたりする。社会や他人のために何かをやる時期である」 僕の場合は、最初の自分探しの20年を自分のためではなくて、他人のために消費して、未だに見つかっていない。 そして、それから12年ほど遅れていて、未だに発見できていないということか。 どうして、本当の自分を探さないといけないかというと、それは、自分が親になり、子供が生まれた時に解るかも知れない。 親が内なる子供を育ててないと、子供も当然、同じようになる。親の限界が子供の限界になってしまう。 親が自分の力の限界を感じたら、誰か子供の師となれる内なる子供を育てている人を見つけないといけない。 それでも、親のいいところと悪いところは必ず伝わる。 無意識の行動パターンが刷り込まれる。 だから、自分を誤魔化して生きてはいけない。 自分が自信を持ち、自身を許せるなら、他人も許せる。 自分が許せないと、他人も許せずに、その心の刃は他人も傷つける。 誰かを助けるつもりなら、まず最初に自分を助けてあげないと、いつまでたっても、助けたつもりが、傷つけている事になる。 なら、自分の行為を信じる事により、他人の行動も信じようと思う。 やるだけのことはやっている。 たったひとつの願いは必ず叶うと。 そのままの自分を受け入れるとは、どういうものなのだろうか? とにかく、僕の場合は全てを認めて、受け入れて、自分を磨きながら差を縮めるしかない。 何もやらずに、そのままに、自分に正直に。 そのために、実行力が必要。 もう、色々とはじめてはいるが。 2000.3.29(水) 〜大阪オフ会とは何だったのか?パート2/現在の心境〜 思い出してみれば、大阪オフ会に行く前は、僕はついに問題を抱え切れなくなって、抑鬱になっていた。 それで、行きの新幹線を待つ間、何故かユングの本などを読みながら、無意識の力なんかの存在について考えていて、やっぱり、僕やみんなの中にそういうものがあるんだろうなという記述を見つけ、少しほっとしたりしていた。 体験的に、そういうものの存在は感じていたが、心理学の臨床ではどうなのか解らなかったからだ。 僕はいつも自分と相手の秘めている内なる力を信頼して、本は参考と確認のために使うだけで、いつも、自分の感覚だけを頼りにやってきた。 それで、随分、間違いもしてきたが、相手と自分の心に正直に生きようと思っていた。 不思議と本を読んだ時は、いきずまっていたりするのだが、 過去の体験のことが書かれていたりして、振り返ってみたりヒントを掴めたりとタイミングはいつも良かった。 的確な時に的確な本を引き寄せている感じがした。 それは、相手もそうらしく、その人が紹介してくれた「心的外傷と回復」という本にはずいぶん助けられた。 的確なタイミングだった。 そういうことに助けられて、何度も危機的状況をくぐり抜けて来れた。 それも相手の回復するための無意識の力であり、その力は完全に機能しているように思えた。 あれを読みながら、やはり僕はやってはいけないことは全部やっているし、それでも、体験していないことが、ほとんどないことも解った。 それで、1日目にカウンセラー志望の高校生「うぇるくん」が、だあちゃんのカウンセラーのおばちゃんに、カウンセリングを受けていた時、僕の中では抑鬱も極まり、言葉を吐き出すのを耐えることができなくなりつつあった。 でも、 「うぇるくん」の抱える闇も深く、彼は大好きだったおじさんの死に際して、泣けなかった自分を思い出していた。 実は僕の疲れもピークで、ただ、自分の悩みと様々な問題に押しつぶされそうで、それに耐えるだけで精一杯で、記憶もかなり飛んでいた。 あまり覚えていないところもある。 まあ、その後、1日目のカウンセリングは彼で終わり、僕とともすけさんは3日目にまた、受けることになる。 しかし、僕はもう、限界だったので「うぇるくん」が「カウンセリングって闇の中に沈んで、目を凝らして光を見つめ、耳を澄まして音を聞く」なんてかっこいいセリフを吐いてくれてたので、自分の悩みや今まであったことを、ほとんど全部、話してしまった。 自分がどう感じたのか、どう思うかと云うことも2時間ぐらい話したろうか。 話を吐き出すだけで、僕の悩みもほとんど消えていた。 それで、オフ会後にいろいろと気づいたのだけれど、オフ会 の時は、僕の感情が麻痺から解放されつつあり、子供返りもしつつある時期だったようです。 今でも、僕の感情は揺れやすくなっているし、内なる子供の存在が色濃く感じられて、魅力的な他人の中に子供が見える ことがある。 昔は、僕は大丈夫で強いんだという突っ張りのようなものがあったけど、最近は、感情のままに泣いたり、怒ったりできるようになったと思う。 それは、弱々しくて、不安なことも、情けないようなこともあるが、感情のまま、そのままにさせている。 【偽りの自己/共依存自己】についても、いろいろと悩んだりしたが、感情が麻痺しているのならともかく、感情が噴き出している時の自分は【真の自己/内なる子供】だと思うようにした。 カウンセラーのおばちゃんが云ってくれたことは「自分に自信を持て」ということと「あなたが、誰かの事を助けようとしたり、誰かのために悲しんだりするのはとてもいいことですよ」ということだった。 今の僕は、余計なお節介がその人の力を奪うことを知っていて、「10」云いたくても「1」のヒントを出すだけで押さえることができるようになったし、でも、相手に共感していつも泣いたり悲しんだりしている自分もいいなと思えるようになった。 【偽りの自己】の属性であっても、知識を溜め込んできたこと、理屈っぽいとか、理論を云ってしまいがちなところ(知性化)なども、時には必要で、それは相手を思う感情さえ伴っていればそんなに悪いことではない、と思えるようになった。 【共依存自己】だなんだと自分を切り刻むのは、あまりに自分の過去を否定し過ぎだと思うし、本当の自分が必死で現実に対応しようとして作り出した人格なんだからもう少し大切にしてやってもいいかなと思う。 その人格が蓄積してきた経験、知識、性格などはそのまま僕自信の財産でもあると思うし否定すべきではないと思った。 むしろ、自分の感情を素直に出すというところに重点を置くべきで、それを誤魔化してはいけないと思った。 それで、アイスバーグさんの「愛情ではなかったのね」発言にに対しては、正直に反応することにして、メールでは泣きを入れるわ、IFFメインでは愛の告白はするわという結果になりました。 ありがとう、チータロ。あんただけだよ。突っ込んでくれたのは。ああ、あんたは心の友かも知れない。 (いや、呆れているだけだと思うよ) それはともかく、僕の父への憎悪というのは、これほどとは思いませんでした。 先日、父親に云った言葉では「四国のお遍路さんに行けばいいじゃん。でも、お遍路さんって、徳島から時計周りになるけど、段々と寺同士の間隔がしだいに開いてきて、愛媛県あたりの寂しい道端で、のたれ死にするのが、昔、あったらしいよ。年寄りが食い扶持減らすための、姥捨て山のようなものだったらしいよ」 なんて、恐ろしいこと云ってますし。 食事の時は一緒にいたくなくて、父親がいないと母親とかとは食べれたりしたりして、時間をずらして食事するようにしている。 それに、地元で就職しなかったのは父親から逃げるためで、 自分の部屋を掃除と称して、組み換えられると激怒してしまうし、それは凄まじいし、他人が同じような態度を取ると、 やはり激怒してしまうというのが、僕の人生だったなと回想したりしています。 この感情は吐き出さないと、将来、誰かをまた傷つけそうなので、しっかり嘆いたり、怒ったりしたい。 やりたいことをやる。 素直に感情は出す。 単純だけど、それでいいんじゃないかと思います。 2000.3.26(日) 〜大阪オフ会とは何だったのか?〜 昨日の日記についてですが、内容的には、大阪オフ会メンバーを僕がこんな感じだったよ、と独断と偏見に基づいて描いた意地悪レポート/個人批評でありました。 友達なくすようなものでした。 それで、不適切な表現が多発し、個人の生命にも関わるものでもありましたので、自分の意志で削除しました。 というのは、朝、更新してから遊びに出かけたのですが、途中で不味いことに気づいて、帰ったら削除しようと思っていました。 帰宅してすぐに抗議の電話が2本ほどあり、用件はすでに解っていて「はあ、削除します」と素直に答えました。 分析すると、オフ会中の自虐、自己否定的態度が反転して、 外部に投影され、他者攻撃になったようでした。 これは心理療法では、自己防衛機能の一種で「投影」「受動-攻撃行為」というそうです。 この防衛機能のひとつに「知性化」というものもあり、僕の「理屈っぽさ」はこれに由来するようです。 それで、このような対外的【偽りの自己/仮面/ペルソナ】 を「共依存的自己」と呼びます。 僕は最初、これって「相互依存」かなと勘違いしていましたが「過剰に他人の意向、欲求、行為に集中しすぎて、自分を見失い、自分の中の【真の自己/内なる子供/インナーチャイルド】の欲求を無視してしまう」というものらしいです。 僕の場合は典型的ですが、この変形として逆に「自分をコントロールできないために、他人を支配することによって自分をコントロールしているつもりになる」という反転したケースも存在します。 僕も時々、アドバイスと称して、これをやってますね。 これも結局、他人の欲望、願望を餌にして他人をコントロールするわけだから、他人の意向に過剰に注目すると云うことでは同じです。 【真の自己/内なる子供/インナーチャイルド】に目覚めた人はそんな必要はないし、他人に対して支配的でもなく、自分に自信をもって自分の意志で生きています。 そのような【内なる子供を癒す】必要がある人々は多く、全家族の約80%ぐらいが、共依存関係にあるといいます。 すなわち、ほとんどすべての人がそうする必要があるということになります。 そして、それは「ただ、そのままのあなたでいいんだよ」という存在するだけで愛されるんだよということであり、その先には「あるがままを受け入れる」という禅の悟りの境地も存在します。 オフ会中は、僕の麻痺した感情は解放され、情緒不安定になっていて、その後もかなり揺れていました。 その後、昨日の日記を書いた後に、父親への怒りが噴出しまして、身体全体が火照るような、熱病のような体験をしました。 僕の場合「気づき」とは、生理学的な身体反応を伴います。 それは、熱性けいれん→てんかんと移行した僕の体質的なもので、脳内物質、身体のホルモンの過剰分泌を引き金として起こる現象です。 オフ会は混乱ばかりだったが、多くの力も貰ったし、まあ、かなり良かったのではないかと思う。 思い返してみれば、インターネットをはじめて、いつのまにか心理的な世界にはまり、IFFに辿り着き、人に出会っていき、「抑鬱と気づきのジェットコースター」の只中に今もなお、生きている僕と云うものは何者だろうかと思うことがある。 全ては無意識の知恵を利用できる【真の自己】の力なのだと思う。 その時、必要な本を探り当てる能力とかはそら恐ろしいものがある。まったく、無駄がなかつたりするのだ。 まあ、揺り戻しというか、揺れは凄まじいが、その導きを信じて、嘆き続けていれば何か見つかりそうな予感もする。 次回に続く。 2000.3.18(土) 〜抑鬱/これまでのいきさつとしての回想〜 また、悩んでいるな、ばぁーぐさんとか、謎の呼び掛けをしときます(笑)。 果たして、この日記を見ているかどうか、解りませんが、メッセージだけ残して「大坂オフ会」に旅立とうと思います。 僕も抑鬱気味で、最近、壁にぶちあたって悩んでいたりします。抑鬱の時は、しかし、思考の幅と視野が思いっきり狭まるようで、でも、それによって悩んでいるテーマに集中できるというメリットもあります。 だから、大いに悩むということはいいことです。 苦しいですが、それを突破した時の「ひらめき」が、まるで 「ジクソーパズルがピタッとはまり込んだような快感」(だあちゃん談、僕も同感です)であり、それを通過すると何かひとまわり成長したような、視野が広がったように感じるはずです。 それはその通りで、1段階レベルアップしたというのが適切でしょう。 脳のシステムから見た「抑鬱」は悩むことにより脳の活動が弱まり、一時的に鬱病のようになります。 しかし、それは何かに「気づく」ために敢えて悩む訳で、 突破すればとても清々しい気分になります。 それを信じて、つらくても我慢しつつ頑張りたいのですが、 たまには休みましょう(笑)。 もはや、難しいことを僕に考える能力がなくなりつつあります。 苦しいっす。 気分転換が必要なのかもしれません。 そもそも、今回の「大坂オフ会」に至までの道筋を辿ろうとすると、去年の1月頃まで遡ってしまいます。 前の仕事であるセールスをやめて、地元に帰ってきた僕は、 安月給であるが、公務員みたいな夕方5時にぴたりと終わる仕事を運良く見つけて、ほっと一息ついていました。 安月給については無理もなくて、午前中は、師と仰ぐ関西人のD先輩と色々と人生や社会に語り合っていて、午後もこれといって自動運転の機械が上手く動いているかどうか眺めているだけの仕事だからである。 まあ、緊急事態、危機に関する予測力、対応と判断は重要で身体もちゃんと使って働いているし、自転車通勤で1日、1万歩は歩いている。 しかし、僕より暇な公務員さんが年収は倍近く多いことを考えると確かに羨ましくなるのも無理はないが、まあ、仕方ない。 それで、暇な時間は思索と会話に当てられる訳だけど、実は コンピュータを使って3DCGとかネットの仕事とかできないかなとか思っていたのも確かで、それで、まあ、ドリームキャスト/Dreamcast(以下、DC)というゲーム機でネットに繋ぐようになった。 それが、去年の1月。 しかし、DCでは何とも不便だったので、昨年夏頃には、ついにiMacに乗り換えて、今に至っています。 ところが、小説とか、世界の不思議について探究するような サイトを作っていた僕は、いつしか、精神系のサイトに惹き付けられるようになっていく。 沖縄の自閉症児「まさ坊のママさん」に、脳に関するメールを送ったりしていた。 決定的なのは「ともすけさん」との出会いであり、そして、 IFF事件を経て、その後、カウンセラー志望の大学院生ぐーさんとか、だあちゃん、アイスバーグさんとかに知り合うことになる。 家族機能研究所「IFF」というのは、家族とか人間関係が原因で、心的外傷を負ってしまった人々の心を癒すという医療機関で、僕が思うに、抑鬱とか過剰な攻撃性、極端に心や感情が不安定な人は、過去にそのような悲しかったり、恐怖の体験があり、それが原因で心の一部が「解離」してしまった人なのだと思う。 そして、心は、その恐怖体験を「時間を止めたり」「記憶を消したり」「感情が凍結させる」ことにより、意識と切り離して心の本体を防衛する。 その後は、そのことを本人は意識できなくなるようである。 でも、心の傷は必ず外部に投影されて、人間関係に不具合を生じさせる。 他人との距離がとれなくなったり、極端な寂しさ、怖れ、優しくされることへの奇妙な恐怖、見捨てられる不安、激しい怒りと反応などの症状が現れてしまう。 これを解消するためには、忘れ去られた記憶と感情を思い出し、心をもう一度、ひとつに統合しないといけない。 それは記憶が消失し、忘れるほど嫌な記憶を思い出すというつらい過程であり、それができなければ、各種の心身病になってしまうというものである。 そして、心的外傷をもっていない人などこの世にいない。 僕にも原因不明の「怒りの発作」などがあり、それを自己治療する過程で、知り合ったメンバーと今回、大阪で会うことになった。 僧になるために1年間修行のために山に上がるという「あだっちを見送る会」として行われる予定だったが、どうも、このままでは「だあちゃんと愉快な仲間達」という感じになりそうです(爆)。 (山と云うのはおそらく、高野山。どんな人でも1年修行すれば僧の資格がとれるとか、しかし、寺は自分で探さないといけないらしいので、親が坊主であるらしい、あだっちとかでもなければ、実質、厳しいことには変わりない) どうも、内輪しか解らない日記ですいません。 2000.3.18 |