インターネット日記/週刊誌的考察26
 



2000年4〜5月の日記

▼今年の方向性としては、情報化社会のなかで混乱しないための
「情報処理の仕方/モノの考え方、見方」をメインテーマとしたい
と思います。しかし、誤報も多い。素直に反省致。とほほです。

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【今後の予定ネタ】
〜ソニーの野望/セガとNTT〜
〜ISOと官僚天国/新たなる利権〜
〜至高体験/物理学とトランスパーソナル心理学〜
〜愛と暴力と共依存、そして、贈与論〜


2000.5.31(水)
〜思い出に変わるまで/Secret of my heart〜

僕は最近、考える。

トラウマ体験や心的外傷の記憶を思い出して、過去を振り返る作業はとてもつらくて、苦しい。
一体、いつまで、嘆き続ければこの苦しみが終わるのか、果てがないような気がしてくることがある。

実際は、数年も嘆いていれば終わりが来るのかもしれない。
でも、例えわずかな期間でも、その時間は無限に長く感じることだろう。


自分に向き合うといっても、怖くて、どうしても恐怖感があり、思い出したくない、思い出せない記憶はある。

そんな時、こんな記憶を思い出して、何になるのだろうと思うかもしれない。
いっそ、忘れてしまいたいと思うかもしれない。

でも、記憶を忘れ去ってしまうことは出来ない。
心的外傷として、心の本体から切り離されて、記憶から消えたように見えることもある。
でも、それは、形を変えて、恐怖や寂しさとして、その人の心を脅かし続けるだろう。
その記憶は消えたように見えても、そこに、何処かにあり続けているからだ。

それに、そんな記憶は、大概、一番、幸せだった記憶とともにあることがあるのも良くあることだ。

つらい思い出を忘れることは、一番、楽しかった思い出まで否定してしまうことになる。


では、どうすればいいのか。

つらくても、思い出さないといけない。
そして、全ての怒りも、悲しさも、寂しさも、すべての感情を吐き出せば、それはいつか思い出に変わるだろう。
幸せだった記憶を忘れる必要はない。
忘れることなどできはしない。

どんなに悲惨な記憶や裏切られた記憶も、たぶん、その時、
自分は精一杯、やったはずだ。
そう、その時のベストを尽したはずだと思える日が来る。

仕方がなかった。
たぶん、自分はそうするしかなかったと思える日が来る。

その時、つらかったり思い出も受け入れることができるようになる。


心的外傷からの回復とは、そういうものではないかと思う。

嘆き続ける。

逃げなければ、また、幸せな未来が開けるだろう。
というか、悲しみさえ、いい思い出になる。

思い出に変わるまで。

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どんな 言葉に変えて
君に 伝えられるだろう
あれから いくつもの季節が
通り過ぎたけど
いつも 傍で笑っている
私にも言えないことが まだ ひとつある

Secret of my heart 疑ってもいないね
いつだって少しの未来があれば
真実は 手に入れられるはず
I can't say もう少しだけ I'm waiting for a chance

こんな穏やかな時間(とき)
もっと 繋がっていたい
全てを見せるのが 怖くて
少し離れて歩く
君の横顔がなぜか
壊れそうで 守りたい もっと近づきたいよ  

Secret of my heart 理解(わか)ってくれるよね
誰だって 逃げたい時はあるけど
それだけじゃ 何も始まらない
I can't say きっと必ず I'm calling for a chance

Call I tell the truth ? その言葉言えず 空回りする唇に
Feeling in my heart 隠せない これ以上 
'Cause I love you
I will be with you Wherever you are Can you feel my
heart ?

Can't you see,you're my dream 失いたくないよ
大切な 君と過ごすこの時間
あきらめる位なら 信じて
I just wanna say もう迷わない

Can't you see,you're my heart どんな作り物も
簡単に壊れてしまう 日が来る
だけどまた いつまでも変わらない
Secret of my heart Our future is forever


     『Secret of my heart』song by Mai Kuraki


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このパターン2回目やん(笑)

現実はこんなロマンチックなものじゃないけど、まあ、何となく心情的にはこんな感じだろう。
結構、当ってる面もある。

「私にも言えないことが まだ ひとつある」
まだ、思い出していない記憶が僕にもあるから、このあたりをいつ思い出せるか。
たぶん、近いうちに、思い出せるだろう。



2000.5.27(土)〜電脳突破党〜

実は、この前の東京に行って、栗本慎一郎と宮崎学の盗聴法反対のインターネット政党「電脳突破党」のポスター貼りをしてきました。

その様子はここにアップされてます。
どこかの写真に僕が写ってます。
知ってる人だけ楽しめる企画です(爆)。



2000.5.22(月)〜寂しいということ〜


今まで生きてきて、特に、寂しいなんて思ったことはなかった。
人はしょせん、いつもひとりぼっちだと思ってきたから、寂しくはなかったし、ひとりで遊ぶのが得意でもあった。

友達はたくさんいた。 親しい友人はいた。
でも、親友はいなかったかもしれない。
一生に、ひとりだけでもそういう人がいたら、その人は天下を取れるなんてことが言われることがある。

それほど、稀なことなので、これは仕方ない。
自分のために、相手のために命を捨てれる人という意味なのでこれは本当に稀なことだろう。


だけど、最近、寂しくなって涙を流すことがよくある。
ふいに、悲しくなることがある。
それはひとりぼっちになった時に突然、襲ってくる。
何なんだろうと思う。

それで、色々と考えたんだけど、たぶん今まで、誰かと魂を触れあわせるなどということがなかったからかもしれない。

それが、最近、そんなことが続いたりしたので、自分の家族とかとくらべると、やはり、落差が大きい。
だから、寂しくなるのかもしれない。


たぶん、心についてとか、本音で話す友人が増えたからだとも思える。

大阪オフ会以来、IFFの東京オフ会、特に今回の東京行きの後もとても、寂しくなった。
たぶん、今まで、そんな人間関係を作ってこなかったからかもしれない。

IFFのメンバーと言うのは、そういう意味で、本音で話せて安心できる人たちである。

決して、自分の感情から逃げないし、不当なことで腹も立てない。
時には、怖れたり、弱さを見せることはあるが、実は弱さを見せると言うことは、たぶん、ずいぶん勇気のいることなのだ。

自分の非を認めたり、感情をさらけだすことも、他人や自分の感情に向き合うことも、本当はつらくて、苦しいことなので、多くの人が感情を麻痺させて生きている。


僕もそうだったんだけど、最近、抑鬱になったり、泣いてばかりいる。
感情麻痺が解けて、生の感情が体験できつつあるのではないかと思う。
でも、苦しく、寂しくなったりする。

だけど、それが本当の感情であって、抑鬱にならなかった今までは、自分の感情を眠らせて生きてきたということになると思う。

苦しくても、そういうふうに生きていくことはとても充実しているような気がする。


それで、夢のような話なのだが、IFFのメンバーとどこかで一緒に暮らせたらなんて思うことがある。
まあ、人によっては「それは嫌だ(爆)」なんて言う人もいるとおもうが、まあ、夢の話だから勘弁して欲しい。

実際には、オフ会とか、どこかで会って話をすることはできるだろう。
たぶん、それは、本当は出会いたかったのに、出会えなかった幻の家族に会うような体験かもしれない。
そんなことをしているうちに、自分の家族の呪縛が徐々に解けて自由に生きれるようになるのかもしれない。

寂しさは時には人に会うことで、満たすのもいいのかもしれない。

しかし、日曜日の朝4時から昼すぎまで、実に9時間43分にも及ぶ耐久チャットはさすがにこたえました。

何故か、えとさんの人生を幼い頃から現在まで振り返ってしまったのだが、そんなに長い間、人の話を聞いている僕もどうかしている。

でも、途中で抜けれなくなったりするのよねえ。
完全にふたりともトランス状態に入って、時間を忘れていたりします(笑)。

他人の話を聞いている暇があるのなら、自分の幸せを追求するようにしたいものだが、それができれば苦労しない(爆)
まあ、性格だからしかたないのかも。
ああ、結局、愚痴になってしまったなあ(嘆)。





2000.5.11(木)〜電脳突破党/また、東京行き〜

やっぱり、削除してしまった。
東京オフ会日記でした。 自粛でしょうか。
良く考えると、それも当たり前な話で、他人の評価を押しつけられて苦しんでいる人ばかりなので、そもそも描写することなど不可能でした。
配慮不足でした。
もう少し練り直してからアップするかもしれんが、2日目以降の話になるかも。


それで、電脳突破党の選挙前強化月間のために、またも東京に行こうかと思います。
今回、行かないと選挙当日にいきなり行っても何も解らないことになる。
準備知識を仕入れる、そんなものになるらしいので。
当日、行けない、ということになるかもしれんが、それでも何も解らないで、うろうろしたくないのです。

5/12(金)の20:00に高速バスで出発〜5/15(月)にゆっくり新幹線で帰宅でしょうか。
帰りは疲れそうなので、新幹線です。
スケジュールは、突破党のサイトに書いてますが、やはり、選挙当日の準備のためのものという色彩が濃いです。
素人がいきなりなんやかやとやれないからねえ。


それで、どうしてそこまでするのかというと、盗聴法反対というのもあるけど、僕の人生を振り返って、やっぱり、やりたいことをやってきたかというと、何か中途半端な気がしています。
追求していかなかったような気がします。
それもあります。

そして、何より栗本慎一郎議員は、僕の尊敬する人でもあります。
栗本氏の経済人類学という学問を、僕は色々と考える時の拠り所としてきましたし、氏の老練でありながら、いい意味の純粋さを残しているところがとても好きです。

自分の信条を枉げてまで生きようとする人ではないし、また彼は、この世界の支配者のいる「あちら側」に行くことができる人でもありましたが、その能力は十分すぎるほど持っていて、それでありながら、僕ら庶民のいる「こちら側」にとどまってくれた人でもあります。

彼の著書は終始、大衆と呼ばれる僕らの啓蒙を目指して分りやすく書かれていました。
たぶん、死ぬまで「こちら側」で戦ってくれると思います。
かつての学生運動の時のバリケードの「こちら側」で。

まあ、こんな意見は純粋過ぎるなんて思う人がいるかもしれませんが、僕は馬鹿なのでこれでいいのです。
こういう生き方です。


それに、実は栗本慎一郎氏の思想と家族機能研究所/IFF代表の精神科医、斎藤学氏の思想と、社会学者にして精神分析医でもあるエーリッヒ・フロム(彼の著書「悪について」「愛するということ」共に紀伊國屋書店は必読)の思想にはある共通点があります。
それは、経済システムが肥大化して、人の繋がりや社会基盤が経済によって破壊されていく今の社会の矛盾に光を当ててそれを何とかして改善していこうという方向性です。

人はどう考えても経済価値によって売買される「モノ」ではないし、人間は人間であるのです。
そういう人間の「モノ」化によってもたらせられるのが、家族や愛や共同体の崩壊であり、それがさまざまな不幸の原因でもあります。

経済システムが主導する嗜癖(脳の快感)システムによって社会や人がどのように蝕まれているかについては、アン・ウィルソン・シェフ著「嗜癖する社会」斎藤学監訳、「嗜癖する人間関係/親密になるのが怖い」高畠克子訳、ともに誠信書房が詳しい。

栗本慎一郎著「パンツをはいたサル」と「パンツを捨てるサル」ともに光文社もまた、人の快感システムと社会について書かれたものであり、必読である。

ある意味、今の社会の常識や正常とよばれる基準そのものが
「異常」である社会に僕たちは生きていると言うことに気づいてほしいものです。
そして、そこから脱出するのは至難の技ですが、決して不可能ではありません。
アダルトチルドレンと呼ばれる人々、内なる子供を癒し、回復し、成長していった人々がいるからです。

言ってみれば、僕たちは何も気づかないで眠り続ける「マトリックス」の中の人々のようなものです。
ほとんどの人が気づかずに眠っている中で、目覚めるのは勇気のいることですが、本当の自由や愛はその先にしかありません。
快感に身を任せ、一生、麻痺したまま生きていくのは楽であめかもしれませんが、不幸しか生まないかもしれません。

そして、この話は「本当の現実」の話なのです。

まあ、何を言ってるのか解りずらいと思いますが、そのあたりの話はまた、次回にでも書きたいと思います。
あ、東京北区、足立区に住んでいる方は、栗本慎一郎に1票お願いします。


P.S
しかし、昨日、チャットでは「よもーる」さんと話したかったな。「アイスバーク」さんとも。
チャットは不慣れだったけど、誰が「大切な人」なのか見極めないといけません。まったくねえ。










2000.4.22(土)
〜Wait&See/リスク/モーニング娘/傷と甘え〜


タイトルの「Wait&See〜リスク〜」は、宇多田ヒカルの新曲のタイトルなんだけど、 今の世の中の流れに対して、現状を認めつつも、癒しつつも、 激励しているような歌になっている。

どういうことかというと、モーニング娘が最近、4人ほど増員されたんだけど、そのメンバーの年齢が15歳、14歳で、残りのふたりはどちらも12歳になっている。

その人選を見て、僕はプロデューサー「つんく」の時代を読む嗅覚は未だに衰えていない感じがするが、その理由が、時代や日本の社会、結局、現代日本の男の更なる「幼児化」と「マザコン化」なんてことだと云ったら、それは違うと云いたい人は一杯いると思う。
つんくは、姿勢として時代に媚びているとも言える。


でも、不況、失業により、社会全体が自信を喪失していて、
傷ついた心をかかえる人々が多いのも事実だ。
男たちは誇りを失い、無限に退行しているようにも見える。

母の胸に帰りたいと云う願望も無理もないようにも見える。
癒される場所は必要だとも思う。
でも、そうだとしても、それだけでいいのだろうか?

傷ついた、頑張りすぎている女性についてはそれもいいかなと思うが、男として、癒された後でもなお、なんとも言えない情けなさと「甘え」があるような気がする。


そして、最後には、何か深い穴に落ち込んでいくような気もするのだ。
天童荒太の「永遠の仔」や自閉症、引きこもりをテーマにしているドラマが、最近、増えている。
それも今の社会の状況を的確に反映している。

ストーカー殺人や新潟の少女監禁、幼児殺人、それらの犯人の男たちは、ほとんど、引きこもりと、大人になり切れない「甘えた」男たちばかりである。

「傷」は癒さないといけないが、「甘え」は断ち切らなくてはいけない。

男としては、せめて、恋人や奥さんが安心して「甘え」られる家庭や社会を作らないといけないのではないかと思う。

例えば、こんな話がある。
家族で、キャンプに行くとしよう。
準備から、段取りまで、奥さんが全てやって、亭主はテントの中でふんぞりかえって、子供の面倒もみず、気に入らないと怒鳴り散らす。
そんなことが増えているらしい。
果たして、こんな男に奥さんが尽す必要があるだろうか?
まったくない。

楽して、甘えているだけである。
マザコンである。
全ての男はマザコンなのだけど、そうだとしてもこれは酷すぎると思う人も多いだろう。
「傷」を癒すことと、「甘え」とを混同してはならない。


そういう訳で反省と自戒を込めて、僕は最近、村上龍の「すべての男は消耗品である」などを、ふと、買ってみた。
このエッセイ集は、僕が確認したところでは「Vol.5」まで出ていて、今、それをどんどん読んでいる。
もっと出ているのかも知れないが、良く判らない。

初版は1987年8月である。
内容を要約すると「最近、男がだらしない。仕方がないので村上龍は自立しようとしている魅力ある女性を目標にしつつ頑張っている」 なんてところだろうか。

「自立している女性」というのは何も経済的に自立しているキャリアウーマンという意味だけではない。
主婦であっても、現実に対して甘えず、しっかり生きている
人を指している。

まあ、でも、そうは云っても甘えられることは幸せである。
普段は、精一杯、頑張っていても時には、男女ともに甘えられる存在は必要である。
甘えたとしても、それが、その人を傷つけたり、あまりに負担になったり迷惑をかけたりしなければいいのではないかと思う。
時には、迷惑かけてもいい場合もあるし、あまり我慢するのもよくないが。


僕のインナーチャイルドは、小さな頃、甘えられず、そのために泣き虫のようだけど、それを他人や女性に求めて甘えるのではなくて、自分を愛しむことで解放してやれたらいいと思う。

女性が安心して甘えられる男になりたいと思う。


****************************************

 愛情
 向かって左に欠乏
 だから君が必要
 冷たい態度で自分を
 守っているつもりなの?

 変えられないものを受け入れる力
 そして受け入れられないものを
 変える力をちょうだいよ

 Oh baby can't you see
 やっぱり痛いのはイヤだけど
 リスクがあるからこそ
 戦う程に強くなるのさ
 怖れないなんて無理  

 Oh baby can't you see
 待つのは得意じゃないけど
 決めつけるのは早すぎるんだ
 占いなんて信じたりしないで

 So baby wait and see
 癒せない傷なんてない
 リスクがあるからこそ
 愛する程にせつないのかな
 そんなに悪くない

 どこか遠くへ
 逃げたら楽になるのかな
 そんなわけ無いよね
 どこにいたって私は私なんだから

 キーが高すぎるなら下げてもいいよ
 歌は変わらない強さを持っている
 悩みなんて一つの通過点
 大きすぎるブレスレットのように するり


『Wait&See〜リスク〜』の歌詞より抜粋
 
               Witten by Hikaru Utada


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しかし、このタイミングでこの歌詞を書ける宇多田ヒカルはやっぱり天才だ。

カップリングの
「Fly To The Moon(In Other Words)」も名曲です。






2000.4.16(日) 〜誰にでもできる恋愛?〜


村上龍のエッセイ『誰にでもできる恋愛』(青春出版社)などという本がある。
女性誌の『SAY』なんて雑誌に連載されたものを、まとめたものであるが、 恋愛論というより、これからどういう風に生きるべきかという人生論のような内容になっている。

でも、それだけではなく、心理学、社会論、大脳生理学なども盛り込まれている。

家族機能研究所(IFF)の斎藤氏が言っている、母親依存から来るらしい男の引きこもり、女性の過食と拒食、共依存などもフォローされていて、村上龍哲学全開である。


これからの日本は「世間」という母親の胎内にも似た繭のような共同体が崩壊してしまったので、個人の才覚や能力を磨いていかなくて生きていけない時代になるという。
肩書きが通用しなくなり、個人の能力のみが重視される時代が来ると言う。

女は恋愛しなくても生きていけるように、経済的にも自立すれば、本当の恋愛ができるという。
そして、自分の能力や技術を高める努力している、結果を出している男を選びなさいという。

そうでなければ、それは「甘え」であり、母への依存により自立できない男は大量発生しているという。
そして、そういう男は恋人にも依存し、時に横暴になり暴力を振るうか、何も出来ない男になるかどちらかだという。
どちらも共通しているのは「甘え」の心理である。

実は僕もこの本を読む前に、医者でふと手に取った週刊誌に男の引きこもりの原因が母親への依存、甘えだという記事を読んでいた。

僕の問題はこれではないかと思いはじめてもいた。
それ以前に、それまで、母親に弁当とか作ってもらっていたのをやめて、弁当屋さんに変えていたりしていた。
どうも無意識の内に問題の本質に気づきつつあったのかも知れない。

そういう依存、頼られることは女性にとっても心地よいらしく。
この人には私がいないといけないんだと思わせてしまうらしい。
そして、何であんなに自立している立派な女性が、何であんなダメ男につくしているのだろうか?
などという疑問も出てくることになる。
それは寂しいからだ。
でも、その寂しさに耐えることのできる充実した仕事と人生をこれからの女性は築くべきである。
なんて言う内容になっています。

という訳で個人的にはぐさぐさと胸に突き刺さる本である。

では、男たちはどうすればいいのか?
能力と技術を磨くしかないのだ。
できなければ、それなりの幸せ、それなりのものしか得ることはできないだろうという。
努力しなければ、それに合わせて不幸になっていく。
やっただけしか答えは返ってこないし、それは本当に正当な評価であると思う。

そういう意味では、はっきりとした階級社会が出現しつつあるというか、もうそういう時代が来ていることになる。

僕などは、自分のインナーチャイルドは「泣いてばかりの泣き虫で本当に無力」であることが判明したばかりで、先が思いやられますが、絶望し切るのが唯一の希望であるともいえるので、まあ、「景気は底は打った」なんて経済企画庁の発表みたいなことでも云いながら、現実的な努力をはじめるしかない。
ああ、厳しいのね。現実って。

大体、小説など書いている人は「なまけものである」「行動的ではない」などと村上龍もいってますが、耳の痛い話ですわ。

それで「自立した男女のみが恋愛をする資格がある」などとも書かれている。
誰でも、恋愛はできるかもしれないが、本当に充実した恋愛をしようと思えば自立が必要だ。

しかし、今回のオフ会、時期尚早だったかも知れぬなどと思ったりもするが、まあ、予測される展開を覚悟しつつやるだけやってみようと思う。







                  2000.4.16



 










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