インターネット日記/週刊誌的考察27
 (最近、インナーチャイルド日記気味)



2000年6〜7月の日記

▼今年の方向性としては、情報化社会のなかで混乱しないための
「情報処理の仕方/モノの考え方、見方」をメインテーマとしたい
と思います。しかし、誤報も多い。素直に反省。とほほです。最
近「インナーチャイルド日記」ともいうべき、内省的な愛と苦悩
と自立と成長(であってほしい)の日記となっています (かなり
嘘っぽい)。

@ 戻る


 



 

【今後の予定ネタ/いつまでたってもアップされないけど】

〜ソニーの野望/セガとNTT〜
〜ISOと官僚天国/新たなる利権〜
〜至高体験/物理学とトランスパーソナル心理学〜
〜愛と暴力と共依存、そして、贈与論〜


2000.7.2(日)〜愛着と愛情〜



 長い間、愛着を抱いていた人から少し離れることにした。
 今まで、何度も執着を断ち切ろうとしたが、断念しきれないでいた。

 本人から「私の顔色ばかりうかがう」「合わせすぎて、自分を見失っている」というようなことを指摘されて、そうかもしれないと思った。

 僕は、何とかして、その人の人生や生き方を変えようとしていた。
 でも、それは本人以外には変えられるものではなくて、僕はその人の人生や覚悟をようやく認めて、受け入れることが出来た。
 それにしても、思いのほか時間がかかった。
 
 それを受け入れて断念してしまったら、何か僕の人生も逆に開けたような気がしてきた。
 他人から見ても、何か吹っ切れたように見えて「自己を超えたな」なんて言われた。

 僕自身は自分が変わったとは思っていない。
 気持ちは変わっていないからだ。
 ただ、自分の人生をしつかり生きないと、他人の人生にも関わることが出来ないんだなと納得はした。
 自分を磨かないといけないと思った。

 愛情と言うのは、その人の生命力や力を信頼することではないかと感じている。
 
 
 
 
2000.6.29(木)
〜JPOPの心、魂を揺さぶる歌、倉木麻衣と宇多田ヒカル〜


 倉木麻衣のファーストアルバム『delicious way』が売れている。
 発売すぐに300万枚を超えているとか、まだ、未確認だが
400万枚はいくのではないかと思われる。

 先日のダウンタウンの「HEY! HEY! HEY!」で指摘されるまでもなく、宇多田ヒカルのパチモン(偽物、物真似)とかいわれている倉木麻衣だが、それは、海外デビューとか、プロモーションビデオの作り方とか、学業優先とか、その売り出し方、プロモーションの方法は、確かに似ているようだ。

 でも、今年の1月の日記で言及しているように、倉木麻衣はR&B界のZARDであり、日本の「JPOPの神髄を継承」しつつ、最新の「日本人好みの洋楽的味付け」を加えたものが彼女の本質である。
 つまり、歌謡曲のかっこいいバージョンである。
 
 英語の発音はいいかもしれないが、やはり、日本人の域を出てないし、それがかえって日本人の情感を揺さぶる仕上がりになっている。

 日本のガールズポップの傑作である。
 僕もとても好きな歌手である。
 彼女の曲は、切なくてクールで、それでいて、明日への希望を持たせるメッセージが込められている。
 人生応援歌という要素も決して忘れてはいない。

 彼女と言う素材をスタイリッシュに仕上げた優秀なスタッフ陣の勝利であり、日本の歌謡曲の集大成であり、王道だといえる。
 ただの物真似では決してない。
 もはや、内容ではオリジナルを超えているかもしれない。
 本当に日本的な歌手である。


 それに対して宇多田ヒカルは異質である。
 異質ではあるが、彼女の天才的歌詞と曲の才能がJPOPの枠を超えて、人の心を揺さぶる。

 僕は彼女も好きで、今回の新シングル『For You』をエンドレスで聞いている。

  前作『Wait&See〜リスク〜』の歌詞で、

 「変えられないものを受け入れる力  
  そして受け入れられないものを  
  変える力をちょうだいよ」

 なんていうのがあって、これって、ACの自助グループの
時に読む、祈りの言葉と言うか、標語みたいなものに似ていて、とても気になっている。
 宇多田ヒカルは、アダルトチルドレンか?とか、思ったりしている。
  今回の『For You』でも「孤独」について歌っているのだけど、最近、僕が考えていることと何故か重なる。
 
 よく、考えてみれば、宇多田ヒカルは海外生活も長く、西洋的価値観の影響を受けているので、そもそもACとか心的外傷というものが、歴史的に見てアメリカで生まれたということを考えれば、当たり前の事かもしれない。

 さて、例によって『For You』の歌詞を紹介して、この日記を終わりたいと思う。


 ヘッドフォンをして
 ひとごみの中に隠れると
 もう自分は消えてしまったんじゃないかと思うの

 自分の足音さえ
 消してくれるような音楽
 ケンカのことも君をも忘れるまで踊っていたい

 散らかった部屋に帰ると
 君の存在で
 自分の孤独確認する

 誰かの為じゃなく
 自分の為にだけ
 優しくなれたらいいのに
 一人じゃ孤独を感じられない
 だからFor You…
 強くなれるように
 いつか届くように
 君にも同じ孤独をあげたい
 だからI sing this song for you

 起きたくない朝も
 君の顔のために起きるよ
 眠れない夜は
 君がくれた歌を口ずさむんだ
 
 勘違いしないでよ
 誰もなにも君に頼ろうと
 思ってるわけじゃないから

 誰かの為じゃなく
 自分の為にだけ
 歌える歌があるなら
 私はそんなの覚えたくない
 だからFor you…
 慣れてるはずなのに
 素直になれるのに
 誤解されると張り裂けそうさ
 だからI sing this song for you

 I want to make you cry
 傷つけさせてよ 直してみせるよ
 
 飛びたい時は
 You alway give me a brighter sky

 You want to make me cry
 悲しみで教えてくれた喜び
 輝きたい時は
 You alway give me a darker sky    
 


  

                song by Utada Hikaru

 


2000.6.17(土) 〜甘えた男の問題と愛情〜



 最近、いろんなことを考える。
 実はこれは僕にも当てはまることなのだが、というか、現代の男全体の問題なのかもしれない。

 自己愛障害、ナルシスト、自己中心的で、自分の非をまったく認めなくていつも自分は絶対に正しいと思っている。  こういう人間が生まれる背景には、現代社会の男と言うものが、学歴、勉強 ばかりしていれば事足りて、人間関係をつくる経験、実体験を積むことなしに大人になるからだろうと思う。

  人間関係においては、自分の要求が必ずしも通らなくて譲歩しないといけないことも多々ある。
  そういう自分の一方的な要求は必ず通るはずだという考え方(これが甘え。 怒りという形で現れることもある)を断念しないといけない体験がないと、 自我が肥大したまま大人になり、ヒトラーのような独善的な人間になるか、 犯罪者(近年の少年犯罪の原因でもあるかもしれない)になるしか道はなくなる。

 まあ、ナポレオンのような英雄のようになる可能性もあるが、彼が皇帝に就いた後にろくな治世を行わなかったのをみれば、やはり破滅しかないのかと暗い気持ちになる。

 宮台真司他の共著『ルール』の中に彼が寄せている「なぜ人を殺してはいけないのか」という文章はとても的を得ているような気がする。

 承認の供給不足が際限のない「神経症的甘え」を生み、 それが自我の肥大に繋がる。
 自分を受け入れてもらえなかった体験が、どうにかして誰かに受け入れてもらいたいという歯止めの効かない欲望となってしまう。
 コントロール志向、支配願望と言い換えてもいい。

 そして、「人を殺す体験がしたかった」という少年達は、
いずれも現実の実体験の不足により、断念を経験せず、人にも繋がれず引きこもり、 承認と愛情に餓えた人間である。
 
 彼らを救うのは、健全な「自己愛」とそれに基づく「他者愛」であり、本当に自分に価値があり、自分を大切にすることができれば、他人をも大切に扱うことが出来るということだろう。

 人間関係を築いて、その中で生きていれば、他人の存在は自分の存在を生かしていくために必要不可欠なものになり、
人を殺すことがすなわち、自分の死に繋がってしまうのでそういうことをすること自体が無意味になるはずである。
 
  でも、この問題は、この時代に生きる全ての男に当てはまる問題で、僕はたまたま、7年間のセールス経験があったから、この問題に深くはまらなくて済んでいるかもしない。

 というか、実は東京オフ会の頃から、こういうことを考えていて、自分の危うさを自覚していただけなのだけど。
 


 とはいえ、僕も愛情と承認はあまりもらえなかった。
 でも、だからこそ、僕は誰かを愛そうとする。
 それは他人を愛することにより、自分を愛そうとしているのかもしれない。
 自分を愛するということはやはり何かと難しい。
 でも、本当に自分を愛さないと、他人をちゃんと愛することもできないのだろう。

 最近、自他の境界線を引き直したら、急に寂しさが込み上げて来た。
 自己が確立すれば、たぶん、その寂しさはもっと増すだろう。 そうなってはじめて、他者の必要性が切実に感じられる。
 
 いつか何処かで、お互いを承認し、愛し合える場所や人に会えるといいなと思う。
 でも、まず、そのためには自分を愛して、自分から誰かを愛すること、愛をお互いに与えあうが大切になるだろうと思う。  
 もう、出会っているという話もあるが。

 しかし、そういう安心とか信頼できる関係ができたとしても、それゆえに安心して自分の心の傷が出てきてしまい、何か知らないうちに喧嘩しているということはよくあるようです。
 心理学的に。
 
 そういう恐怖感と過去の感情を乗り越えていければいいのだけれど、それは大変なことなのかもしれない。
 それに負けて、幾多の幸せなカップルが喧嘩別れしていったのだろうなと思う。

 愛と憎悪。
 恋愛に限らず、親密な関係をつくるというのはかなり大変なことなのだなとつくづく思います。

 

2000.6.15(木)
〜酵素ダイエット/自己の確立/人権/生命の木〜


 今日も、マンゴバナナミルクジュースを飲みながらこれを書いている。
 それらの果物の中には、食べ物を効率良く分解できる酵素が含まれていて、食後にこれを飲むだけでみるみる痩せると
「みのさん」が言っていた。
たぶん、嘘だろうけど。

 まあ、それは置いといて、これは「酵素ダイエット」というものであるらしい。

 効能としては、血液がさらさらになり、心臓、肝臓の機能が高まり、代謝が向上し、おまけというかこれが本命なのだが、食事制限なし、運動なしでも、OKという夢のようなダイエット方だ。

 それで、これらの酵素が含まれているのは、青パパイヤ、
パイナップル、バナナ、大根、タマネギ、しょうが、にんにくなどである。
 ジュースなどにしてもいいが、それらを料理の中に使用すれば効果的である。

 沖縄の人が長生きなのは、この中で最も成分が多く含まれている「青パパイヤ」を料理に混ぜて食べるかららしい。

 しかし、…マンゴーは入ってなかったな。 しかも、バナナとミルクじゃ、栄養多すぎるし、「まったくの無駄」だったかもしれん。反省。
 という訳で今日も1キロ体重が減ったが、これといって何もダイエットに取り組んでいません。

 何故、痩せるのかは毎日、怒られてばかりいるので精神的ストレスかもしれません。
 今まで、何十年も厳しくしてもらわなかったので、つけが回って来た感じです。
 むしろ、感謝していますが。

 あの、しかも、敵対している人に怒られながら、最も近しく信頼している方からも怒られてるという踏んだり蹴ったり状態でして、それも自分が悪いのですが、とはいえ、そのメッセージは心に止めてはいます。



 で、前置きが長くなりましたが、「自己の確立」というものについて考えてみます。
 
 直感的な感じでは、何か夢というか未来のビジョン、自分がやるべきことを見つけて、意志を持って生きていけば、確立されるように思う。
 それを軸として、「人権」というものを尊重して、他人に接していくということではないかと思う。

 先輩の話では「人権」とは、やはり、キリスト教的世界観から生まれたらしい。
 神の下では全ての人間は平等である。
 そこに「人権」が生まれるようである。

 しかし、人は皆、不平等に生まれてくるのが現実である。
  「人権」が尊重されるのは、だから、稀な事であった。
 それを獲得するまでには長い歴史があったのだろう。
 
 今でもそれは尊重されているとは言いがたい。
 親子関係で「人権」が尊重されていれば「アダルトチルドレン」 などというものは生まれなかっただろう。
 
 ACである僕としては、親を選ぶ自由はなかったし、親が自分に負わせた、実は自分で選んだ役割は、親が果たすべき「責任」を僕が背負ってしまったということだと思う。
 
 しかし、そのような世話によって他人の責任を背負ってみても、家族の崩壊は防げなかった。
 偽りの家族が生まれただけで。
 
 結局、他人の人生の責任など、僕は背負うことは出来ないのだと思う。
 当たり前だが。

 だから、どんなに他人のために僕が何かをしようとしても
他人の人生の責任を負えないのだから、もし、何かできると考えるのはただの偽善になってしまう。
 
 責任を負えるとしたら、それは、僕の人生に対してだけである。

 そうなると人の「愛」というものはどうなるのだろうか。
 たぶん、愛は与えることはできても、相手からの見返りは
望むものではないのだろう。
  そして、愛は贈り物のようなものであり、送った後は手放すしかないのだろう。
 運がよければ帰ってくることもあり、それは相手の自由であり、いつまでもそうだと限らない。
 本当に愛していないのなら、別れることもまた、愛となるのかもしれない。

 そして、相手の人権を尊重することは理想であり、それゆえ、人権とは努力して獲得するものであり、 おそらく、優しさなのだろう。
 感情にかられずにそういうものを持ちたいものだ。

 最後に心的外傷の治療については、背負い込んでしまった他人の責任を相手に投げ返し、「自分は悪くはないんだ」ということを認識して、罪悪感とりさり、それを言葉にする恥辱感もまた捨てて、自分の生命の力を信じて、その力を解放してやることではないかと思った。

 人を救うような、罰するような神は「宇宙人」でもつとまるし、この宇宙の法則として、生命の力の働きとして、この世界を満たしているものが神であるように思う。

 ハイヤーパワーとは何も特別な力ではなく、神のうつしみとしての人に宿る生命力のことだと思う。
 そんな宇宙の「生命の木」とも言える人間の内なる力を信じるのが僕の生き方であり、それは何も特別なことではないだろう。
 平凡な生命力への信頼。

 どうして人は、自分の外側の価値観ばかり信じて、自分の感覚と生命力を信じないようになったのだろう。


 回復とは、そんな自然治癒力への信頼によってなされるものだろう。



 
 
2000.6.11(日)
〜トラウマと記憶/精神病/情報化社会〜



 「週刊SPA!」(6/7号)に連載されている劇団第三舞台の演出家、鴻上尚史のエッセイ「ドンキホーテのピアス」に興味深いことが書かれていた。

 情報化社会の進展により、僕らが日々処理できる情報量をはるかに超える社会が訪れつつあるという。
 そのため、その情報を処理すべき脳は、しだいに現実についていけなりつつある。
 これに対処するには情報を遮断して耳を塞いでしまうか、
情報を単純化(紋切り型の情報処理/マスコミなど)して処理するかしかないと思われる。
 
 でも、そうだとしても、頭がついていけるスピードでも、感情や身体のスピードはついていけない。
 
 これについて、鴻上は芝居の稽古が何故1ヶ月も必要かという話をして説明している。
 セリフを覚えるのだけなら、1週間もあればよい。
 それを感情と身体で「納得」する時間が1ヶ月かかるというのだ。


 そして、大切なのは、身体とか、感情が納得できるスピードで生きると言うことである。
 そんなゆっくりした余裕のある時間をつくってやる。
 何かに夢中になれるような時を生きるというのが大切だという。



 実は、精神病や恐怖症、トラウマ/PTSD/心的外傷なども問題となるのは「現実のスピードついていけなくなり、現実生活が営めなくなる」という点だろう。

 そして、その原因はいずれも、記憶や感情を司る「海馬」や恐怖の感情に関係する「扁桃体」などが損傷、もしくは過剰興奮するらしいからであると言われている。
 
 精神病(分裂症)の場合は、何らかの「強迫観念」により何かに駆り立てられるというもので「〜しないといけないのに〜できない」という状態、つまり、「現実に脳や感情や身体やついていかなくなり、パニックに陥ると言うものだ。 
 実はこの過剰な「強迫観念」を断念すれば、スピードを緩めてやれば、精神病も治るはずだが、これはとても難しいようだ。

 このあたりの事は、現役の精神科医が書いた「脳と人間〜大人のための精神病理学〜」(計見一雄著、三五館)に詳しい。

 恐怖症や、トラウマ/PTSDについても、虐待などの体験が海馬を傷つけ(嫌な記憶から心を守るために、心の一部を分離してしまい、記憶が消える。海馬の萎縮がみられるという)、扁桃体に恐怖を刻み込み(例えば、恐怖の記憶を呼び覚ます電話のベルとかに過剰反応してしまう。脳の興奮が止まらなくなるらしい。前頭葉の機能低下がみられるという)
むことにより生じると思われる。

 そもそも、脳は「生きる意欲や感情、愛と幸福感と暴力」を司るドーパミンと呼ばれるホルモンが分泌されるという
「A10神経」というものが、基盤となっていて、それは言わば、脳のエンジンのようなものである。
 これの分泌が多いほど人は幸福感を得られると言う。
 麻薬はこのホルモンの分泌を促進させることにより、人に快感を与えるものである。
 それと、ドーパミンは人間の精神活動や感情、記憶などに関わる前頭葉から海馬などに対して、噴水上に分泌されている。
 身体に対しては、アドレナリンなとど連動して体調、免疫などにも影響している。
 セレトニン、ギャバなどの他のホルモンは、このドーパミンの分泌を押さえたり、緩めたりして、脳全体のパフォーマンスをコントロールしていると思われる。
 要するにブレーキとか、ギアのようなものだろう。

そして、このホルモンの過剰分泌が脳に興奮をもたらすのだが、その原因はやはり、「海馬」「扁桃体」が震源地となるという。
 やはり、原因となるのは過去の恐怖体験の記憶らしい。

 何故かこの過剰分泌の体験により、このブレーキの役割をする前頭葉が機能低下を引き起こしまい、恐怖や脳の興奮を押さえることが出来なくなるのが、精神病や恐怖症やPTSD/心的外傷のようだ。
 そのような「恐怖感」「強迫観念」をなんとか取り除くしか方法はないと思われる。

 これらを治療するためには、それらの恐怖感による脳の興奮を鎮める、トラウマの記憶が甦って感情が過剰反応しないようにするしかない。

 投薬により、これを一時的に和らげる事はできるが、結局
のところ、 トラウマの記憶を何度も言葉にして、感情とともに再体験し、冷静に語れるようになれば、脳の興奮も落ち着いてきて、恐怖感も取り除かれていくと思われる。
 
 原因は、トラウマの記憶にあるのだが、最終的にそのような心理療法がやはり有効なような気がする。

 だが、記憶から消したいほどの体験を再体験するほどきついことはなく、そのために、自分に向き合いながらひとりで嘆きつつ、自助グループなどの同じ仲間とつらさを分かち合いながら、勇気づけられながら進むしか、有効な方法はないだろう。
 できれば、精神科医、カウンセラーなどの信頼できるパートナーがいれば、より、心強いだろう。
 まあ、なかなかそんな人は見つからないものだが。
 
 
   

                 2000.6.4



 










@ 戻る



このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ