インターネット日記/週刊誌的考察28
 (最近、インナーチャイルド日記気味)



2000年7月の日記

▼今年の方向性としては、情報化社会のなかで混乱しないための
「情報処理の仕方/モノの考え方、見方」をメインテーマとしたい
と思います。しかし、誤報も多い。素直に反省。とほほです。最
近「インナーチャイルド日記」ともいうべき、内省的な愛と苦悩
と自立と成長(であってほしい)の日記となっています (かなり
嘘っぽい)。

@ 戻る


 



 

【今後の予定ネタ/いつまでたってもアップされないけど】

〜ソニーの野望/セガとNTT〜
〜ISOと官僚天国/新たなる利権〜
〜至高体験/物理学とトランスパーソナル心理学〜
〜愛と暴力と共依存、そして、贈与論〜


2000.7.25(火)
〜ACという生き方/新世紀の生き方〜


 本来なら「この10年/日本の未来とインターネット2」の予定だったけど、ちょっとACについてまとめて見たくなったので書いてみます。

 今年の1月末から、僕はAC/アダルトチルドレンというものに関わって生きてきた。
 それで、結局、何が見えてきたかというと、過去を振り返ることによって「自分とは何か」ということが見えてきた。
 そして「これからどのようにして生きていけばいいのか」についても何とか展望が開けてきた。

 僕の父親は3歳の頃、母親を亡くし、幼くして2人の兄たちを結核、狂犬病で立て続けに亡くし、祖父はやはり結核を患い、病弱で最後は長期入院した挙げ句に結核由来の心臓病で亡くなった。
 それは、僕が小学生の頃の話だ。

 そんな環境で育った父は、AC理論でいうところのイネイブラ−(世話やき、偽親、支え役の子)として育つことになった。
 イネイブラ−の問題点は、両親から離れるその後の人生において、他人への過干渉、他人の責任や、やるべきことを自分で背負い込む(世話やき)ことにより、結局、その人の成長を阻んでしまうことで、その態度は「共依存」と呼ばれ、他人との「依存-共依存」関係を生じやすい。
 心理的には自分の助けが必要な「依存者」との関係を深めることで、自分の低い自尊心を高めることができるため、不幸な境遇にある「依存者」に逆にしがみつき、その人の自尊心をも低めてしまう。
 まったく、「依存者」にとって何の助けにもならないばかりか、かえって害になると言うところだろうか。
  つまり、過保護になってしまう。
 それに「依存者」は自分の不幸に対して慰めてくれる「イネイブラ−」の存在にしがみつくことで、自分で現状を変える必要がなくなり、やはり、自分の人生を歩めなくなる。

 そもそも、イネイブラ−の自尊心が低いのは、他人の世話
ばかりやいているうちに自分のことが出来なくなり、自尊心を高めるための能力を磨いたり、何かをやり遂げたり、失敗をする機会や経験をすることができないからだ。
 人というのは、挫折したり、経験を積むことにより、自分の能力を知ることができて、同時に「自分はこういうことができる」という自信を持つことができるようになると思う。

 その機会を奪われた(実は子どもの頃から慣れた行動パターンから抜け出すことが出来ない)人間は、健全な自尊心をもつことができなくなり、結局、何も出来ない人間になってしまう。

 僕の父親の場合、未だに僕を子供扱いして、自尊心を傷つける発言しかしない。
 父親は、彼は僕に対して失敗すると「やっぱ り、てんかんだからできそこないだ」とかいって、誉められたことはまっ たくない。
  先日も、僕が過食でふとっているので、痩せないといけないと言っていて、 それはわかるのだが「3年前と比較すると20キロぐらい減ったんだよ。それに最近は運動もはじめているよ」と言ったら、黙り込んでしまった。
  どうも、僕を貶す材料がなくなって困ったようだ。
  確かに、僕の身体を心配してくれているのだが、それなら誉めてくれればいいと思うのだが。
 実は、母親も似たようなもので、 最近、僕が食べなくなったので、お茶碗をわざと大きいものを探して きて僕の茶碗にしようとしたり、残った食べ物を食べさそうとしたりする。  そうしつつ太るから鳥肉にしようとか言って心配もする。  でも、やはり、家族が全体的に料理を食べなくなってきたので、どんどん料 理は残ってしまい捨ててばかりいる。
  料理を少なく作るということは彼女にはできないようだ。  母親は壊れはじめている。
 だけど、それを支えると過食になるので、見放している。  父親に常に料理を貶され、それを見た僕は母の料理を残さず食べ、残り物も ついでに食べていたというのが僕の過食の原因だった。
  過食して、しかも、吐くことは禁止されていた。

 さて、それで、はたと気づくと僕も父親と同じような人間になっていた。
 普通の他人に対してはいいのだが、自分が親近感をもっている人に対して貶してばかりいて、他人の責任や、やるべきことを奪い、成長を阻む世話やきになってしまっていた。
 しかも、自分は何も出来ない人間になってしまった。

 当たり前だ。 親の生き方に影響を受けてしまうのは仕方ないことである。
 何といっても、両親と過ごした時間は長く、影響も強く、その人の行動の規範を作ってしまうからだ。

 では、どうすればいいのか。
 単純だけど、他人への過干渉、世話やきは改め、自分の能力を磨くために自分の時間をつくることだ。
 ACの自助グループで唱えられる「平安の祈り」の中の文言に、「変えられないものを受け入れ、変えることができることを変える力を下さい」というものがあるが、今、僕にはその意味を実感することができる。
 
 人は何かを断念することで成長していくという言葉も、今ならその真の意味が分かる。
 「断念」とは、自分の可能性や人生を諦めることではなくて、人にはどうしても自分では変えることが出来ない性質があり、それは変えることは出来なくて受け入れるしかない。
 自分にはこういう生き方しか出来ないということを受け入れることである。

 そして、人生とは100点を取るだけが正解ではなくて、30点でも、50点でもいいから、精一杯生きることによりそれを受け入れていく過程なのだと思う。
 確かに、その「断念」、挫折なのかもしれない。
 しかし、逆に100点を取らなくては行けないという思いはその人を呪縛して、何も出来ない人間にしてしまう。
  何もしないで0点の人生と挫折かもしれなくても30点の人とどちらの人生がいいだろう。

 今までの僕は失敗を恐れるあまり何も出来なくなってたいたと思う。
 だけど、それは、本当に生きているとは言えない。
 挫折の経験を繰り返しながら、それでも、前に進むことにより成長があるのだと思う。  
 
 そして、過去を振り返ることで僕は本当に自分のやりたいことは何かということに思い当った。

 ひとつは、やっぱり、小説を書くことだ。
 これは、もう「業」としかいいようのないことで、何故、金にもならないのに演劇を志すのかという問いと同じく、 変えることが出来ないことである。
 
 もうひとつは、本を読んだり、色々と考えて思想したりすることだろう。 これも変えられないもののひとつであると思う。
 
 それに伴って、HP作ったりすることもこれに入るかもしれない。 頼まれもしないのに定期的に更新したりしている。
 好きでやっているということで、ふつう、HPって半年ほどで面倒臭くなって閉鎖したくなるものだ。
 
 できれば、こういうことを仕事にしたり、社会の役に立つことにできれば、ベストなんだろうけど、そういうことを伸ばしていくというのがいいと思う。
 
 それで、変えたいことは、過剰な干渉と世話やき、お節介の性格だろう。
 これは長年の間に無意識に身についた行動なので難しいのだが、もう意識して変えていくしかない。
  この資質は、反面、適切な世話やきと、過干渉の見分けがつけば、人間の組織とかの間の調整能力として生かせるという面もある。
 でも、当分は自分の事に集中しようと思う。

 それと、何もしない、失敗の経験を積もうとしないという傾向も改めていくしかないだろう。
  これは、自分のやりたいことをやり続けるということで克服していくしかないだろうと思う。
 新しいことを積極的にやっていくしかない。
 些細なことでも、新しい人間に会う、知り合うということでもいいと思う。

 
 それで、世の中の流れもたぶん、個人の意志とか、責任とか、個性を重視するようになっていくだろう。
 そうならざるおえないだろうし、もう、かなり前からいつのまにかそうなっているように思う。

 今までの日本人的生き方とは、マスコミ、官僚、世間、常識というある種の情報処理システムや規範に従い、個人としては価値判断、状況判断をせずに、集団とか共同体として動くというものだった。

 僕の住んでいる地方などは今でも、こういう共同体が存在し、僕の父も世間体を唯一の価値判断の基準として生きてきた。
 僕はその影響下にあったが、大したものではないにしても読書とかしていくうちに、今更ながら自分の価値観の基盤がどこにあるのか自覚した。
 過剰な世話やきなどというものは、家族の個性や個人を認めないという前提で初めて取れる態度である。

 歴史的に禅宗(自己修練と救い)とかが発達していた都市部では、西洋的個人主義がよくなじみ、日本の中でもそういう価値感をもつ人々が多く存在する。
 高学歴化というのも影響しているように思う。

 この前のオフ会でも感じたが、「自分の頭で考える」ということが、かなり浸透している人たちが集まっている。誰かによる価値観の押しつけを嫌い、個性を重視する。
 当たり前といえば、そうなのだが、僕の両親にはそういう考えは全くない。もはや、存在しているかどうか怪しい世間が唯一の基準である。

 これからは、自分の【外部】から押しつけられた、ワンパターンの生き方や価値観とかそういうものは一切通用しない世の中になってしまう。
 いろんな状況に対して自分の頭で判断して、生き方を決めていくような傾向が強まる。
 そのための判断基準、自分の【内部】の価値観の形成が急務になるだろう。

 そんな中でAC理論が、過去を探り、自分を知り、どのように生きていくのか、その生き方を探る方法のひとつとして
当たり前のものとなるだろうと思う。
 社会の競争により負ってしまった心の傷、心的外傷の「回復」も重要だが、その後に来る「成長」というものを重視すれば、個人の生き方を探る方法として生きてくるだろう。

 そのバックボーンには、西洋的個人主義の文化的伝統があり、それを学んでいかないと本当に理解は出来ない。
 AC理論の批判者の多くは、最初からそれを理解しようとしないか、厳密な個人の責任ということについて全く理解してない人が多い。
 ACの自覚を持っても、確かに僕もそうなのだが、その辺りの「親の責任を親に返す」というのはいいとして、「自分の責任まで親に返してしまう」という面は改めないといけない。
  自分の責任とは何かという自覚が必要なんだろうと思う。
 その価値観と日本的情緒とか情の世界を何とか融合しつつ
新しい価値基準をつくっていかないといけないのだろうが。
 
 
 それと、素直とか正直さというものに対する誤解もある。
 正直とは、従順ではなくて、親に対して不当なことはちゃんと反論したり、怒ったりすることも含まれる。
 行動は変えられても、感情は変えられないし、生理的現象のようなもので、抑圧するとかえって心身症、抑鬱となって心や身体の不調として現れる。
 グリーフワークなどを見て、甘えや責任転嫁に見えても、
感情に正直にという点では、それは必要であるし、かえってそういうことを十分にしないとやはり、どこかに歪みが生じる。
 
 いつまでも進歩がなくて、いつまで経っても成長しないように見えても、個人の心の傷には個人差があり、癒すのに時間がかかることはあるだろう。
 なかには、一生、成長しないなんてこともあるかもしれないが、それではいけないのだろうが、それが精一杯やった結果ならそれでもいいとさえ思う。

 まだ、上手く言葉に出来ないが、そういうことを考えている。
 

 


 


 
 
 
2000.7.4(火)
〜この10年/日本の未来とインターネット〜


 この10年がいろんな意味で日本の転換期になるといわれている。

 現実の世界では、バブルの後遺症の不良債権の処理が進んでいく訳だけど、現在、1200兆円のうち、600兆円ほど処理が終わっていると言われている。
 (数字は受け売りなので、正確ではないかも知れません)

 それは、国債や僕らの税金を投入したり、債権放棄とか、
引当金とか、さまざまな形で進行している。
 でも、このまま不況が続けば、後10年では処理し切れないかもしれない。

 一時は2400兆円(やっぱり数字は正確ではないかもしれない)といわれた日本の資産が、バブルの崩壊で半分以下になって、それがそのまま不良債権化してしまい、それを税金投入などで支えつつ今までやってきたというのが、正直なところだろう。

 それで、今回の「そごう」の救済の影には、またも、旧長
銀の隠し不良債権(「そごう」の借金の1兆2000億円のう
ち、2000億円が長銀の貸し付け分)があるらしくて、それ
意外にもかなりあるという隠し不良債権が、連鎖的に発覚す
ると日本の3分の1の企業に波及するという。(ほんまかい
な…受け売りですから、話半分で聞いて下さい/爆)

 多くのゼネコン、日立、東芝、三菱系企業、ダイエーなどなど、旧長銀の貸し付け先の企業は、日本の中核を担う企業ばかりである。

 そもそも、旧長銀(今は「新生銀行」)は貸付先は大企業で、預金者は政治家をはじめ、金持ばかりで、その利率の良さで(ワリチョ−とか)、実質、最低数千万単位の預金者以上しか相手にしないところがあり、僕の先輩の話では、バブル期に、100万貯金しに行った先輩が、女子行員に「これだけですか?これでいいんですか?」(100万単位の客は客ではないと言う感覚か)と言われてしまったという素晴らしい銀行である。
 当時は、窓口の女子行員が、お客さんのお金をダンボ−ル箱に無造作に、どさどさ入れていたと証言もある。
 何か凄すぎやなあ。

 挙げ句に、貧乏人の税金を救済に投入すると言うのは何ともやりきれない。
 
 それで、「新生銀行」のお薦め商品だけど、今、外貨貯金が10%ほど利子がつくらしい。
 ただし、100万円以上でないとだめです。
 新生銀行に普通口座はないと思った方がいい(実際はあるんだろうけどね)。
 なんか、相変わらず殿様商売だなあ。
 

 今日はすでに7/15だ。
 長い間、日記を書いてなかったら、「そごう」が倒産してしまったじゃないか(笑)。関係者の方、すいません。
 友人のいる横浜店はどうやら黒字なので、ひょっとすると
助かるかもしれないが、予断を許さないが。
 
 今回の政府による1民間企業「そごう」の救済とは何だったのか、何でも掲示板に書いてしまったが、日記にも書いておくと、1兆2000億円の「そごう」の債務のうち、最大の貸し手が「興業銀行」(6000億円ぐらいか?)であり、次が「新生銀行(旧長銀)」(約2000億円)となっていて、実はこの2行を救済すると言うのが、どうやら、本当の目的だったようです。

 何故か?
 それは、この2行がそれぞれ、日本の中核を担う、工業系企業とか、ゼネコン(はざま組など)、百貨店、スーパー(ダイエーなど) 、三菱系企業、鉄鉱業などの大企業に膨大な貸し付けをしているからだ。
 もし、この2行が潰れるようなことがあれば、連鎖倒産で日本の3分の1の企業がつぶれてしまうのではないかと言われている(半分ぐらいかな?)。

 別に「そごう」はつぶれても構わないが、今回の事件は、
「日本を潰してもいいのかどうか」という重大な選択だったのだ。

 それで、銀行の債務というのは、まだ150兆円ほど残っている。これを時間をかけて「引当金」とか「税金」とかで埋め合わせして、つまり、チャラにしていくしかないのだが、その他に450兆円ほど債務があるなんて言われている。
 合わせて600兆円ぐらい。

 さて、それは何か?
 表面的には、赤字国債とかなんですが、実はほとんど郵便貯金です。
 郵便局の貯金や保険のお金は一銭も金庫には無くて、それを補填するために、回り回って赤字国債などで埋め合わせたりしているのが実情です。
 
 政府の予算の「魔法の杖」といえば、財政投融資とかいうものがあります。
 補正予算なんか組む場合、財政投融資、赤字国債発行が政府の十八番である。

 財政投融資(参考HP←この人歯切れが悪すぎ。はっきりせい! 大蔵省財政投融資レポート←さすが大蔵省、分りやすい。でも、だまされそう/爆)とは、郵便局の貯金、簡易保険などの資金を財源として、 特殊法人(日本道路公団など多数ある。官僚の主な「天下り」先でもある。特殊法人、財政投融資については猪瀬直樹著「日本国の研究」文春文庫、が詳しい)などに貸し付け、景気対策として公共事業(道路など社会資本の充実)を行うというものである。
 しかし、仕組みが複雑なので、全体は把握できないと大蔵省はいってますが(なら、把握できるように簡単にしろ!)
要するにごまかし易いようにしていているだけですな。

 財政的に何か困ると、財政投融資で補正予算を組んで乗切る。赤字国債の発行をする。
 そして、際限なく政府の予算が膨張していくシステムが出来上がった。
 
 つまり、その投資先は公共事業で、日本の建設業界、土建屋である。
  建設業は、日本の労働者の3人にひとりを占めていて、この郵便貯金のバラ撒き政策によって、自民党は利権を餌に得票を安定させて長期政権を築いてきたとも言える。
 その頂点が、竹下政権の「ふるさと創成資金」で、田中角栄の手法を継承、発展させたものだ。
 そして、竹下が没した今、利権を巡る政治の不正を暴くために検察が動き出しているという 。

 結局、郵便貯金として存在するはずの450兆円はすでになく、それを赤字国債発行などで補填して、国民の未来への借金を増やしているというのが、今の日本の実情である。
 そう考えると、公共事業は社会資本が残るだけまだましである。
 最近、郵便貯金の引き落としや簡易保険の解約などをしに行ったら、免許証の提出を求めれた。これは、犯罪対策というのもあるが、郵便局からの資金の流出を少しでも遅らせようという対策のひとつだという。
 
 結論としては、政府は、増え続ける国の負債を財政構造改革を迫られている。
 公務員の給料や政治家の公的政治資金、国の財政そのものが破綻しつつある時にもはや背に腹は変えられないだろう。

 対策としては、タバコ、酒税、消費税増税なども考えているが、介護保険もその対策のひとつだという。
 現在、60才以上の老人は平均3000万ほどのお金を持っていて、それを「使わす」というのが目的である。
 景気対策のようなものだ。
 その他には歳出削減策として 全国150万人の公務員のうち50万人を削減したり、その中核として、郵便貯金、簡易保険部門の民営化も考えられている。

 規制緩和によって新規産業の育成をはかりつつ、不良債権を処理していって、財政改革を行っていく。
 それによって、官僚の許認可権は消滅し、その利権に群がっていた政治家も他の利権を探さないと行けなくなることだろう。 官僚も削減される。
 
 だが、民間企業の倒産、買収はアメリカ企業によって行われていくだろう。
 新生銀行のバックには、グループ企業の三菱商事とともに「シティバンク」が資本参加している。

 将来、日本の中核銀行として再生されるだろう新生銀行はそんな訳で半分ほどアメリカ資本が入っていて、「そごう」などについてもアメリカ資本により買い取られるというし。

 政治は、小渕首相の頃からアメリカにべったりになりつつあり、英語を公用語として学校で教えるなんて話もあるし、共産化とかの怖れがなくなった日本は、ついにアメリカの完全なコントロールにはいりつつあり、もはや、対抗勢力は日本にはないような気もする。
 日本の自主性などというものはなくなりつつある。
 それでも、以前は社会主義勢力をネタにアメリカと取り引きができていたものだ。
 日本はたぶん、アメリカの1州としてこれからは生きていくことになるのだろう。

 これからの世界は、経済的には大したことないが、核兵器と人口が多いと言うだけの中国とインドが争点になっていくだろう。
 日本の自衛隊も来年から海上自衛隊に配備される船舶を2倍の大きさにするというし。
 それは、朝鮮半島や中国と台湾の戦いに備えてのことらしい。
 
 国内では、アメリカがシナリオを書いた「IT革命」などが進行しつつ、リストラ、合理化が急速に進展して、産業構造の構造変化が急務になるだろう。
 果たして日本の新規産業は台頭するのか、このまま朽ちていくのか、まったくわからない状態ではある。

 ただ、個人の価値観をしっかりもって、生きていかないといけない時代になることは間違いない。
 
 それで、続きはインターネットの話だが…

 
 
   この10年/日本の未来とインターネット2に続く。
 
 



                  2000.7.18



 










@ 戻る



このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ