インターネット日記/週刊誌的考察30
 (インナーチャイルド日記気味)



2000年10〜12月の日記

▼今年の方向性としては、情報化社会のなかで混乱しないための
「情報処理の仕方/モノの考え方、見方」をメインテーマとしたい
と思います。しかし、誤報も多い。素直に反省。とほほです。最
近「インナーチャイルド日記」ともいうべき、内省的な愛と苦悩
と自立と成長(であってほしい)の日記となっています (かなり
嘘っぽい)。

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2000.12.27(水)
〜グインサーガ/栗本薫/心の傷と小説、表現について/読んでない人はネタバレ注意〜


 どうも、ここのところ調子が悪いと思ってたけど、考えててみれば軽い鬱状態だったのかもしれない。

 疲れとか、眠気、無気力、どれも鬱の症状である。
 人間関係で少し考え事をしていたりして、そのことと関連して、過去の記憶が色々と出てきていて、何とか結論と云うか、吐き出しが終わった感じがする。
 後はそれを書き込みすればいいだけ。

 iMacの方は、Netscapeが不安定で、落ちる原因だったみたいなので、再インストールしつつ、いらないソフトとかをアンインストールしていたら、はずみでメールソフトの古いやつ削除したら、そこに入ってたメールとかアドレスとかがごっそり消えてしまった。

 その瞬間は、さすがにやっちまったと思いました。
  思い出深い個人のメールばかり500通ほどあったから、少しがっかりしたけど、まあ、また、積み重ねていけばいいと
思った。仕方ないね。

 あ、僕宛、僕の送ったのメールを持ってる人は、できれば送って欲しいです。潔くない態度でございます。


 さて、前置きが長くなったけど…。
 僕は長い間、栗本薫ファンで、このサイトも本当は栗本薫ファンサイトにしてもいいのだけれど、もしくは女子プロレスファンサイトとかになってもいいんだけれど、そいうのは何故かあまり前面には出していなかった。

 そういう日記もあまりなかったけど、彼女の小説の「グイン・サ−ガ」が無茶苦茶好きだ。
 「グイン・サ−ガ」は大長編ヒロイック・ファンタジーで知る人ぞ知るという感じで、最終的には全100巻、最近、どうも長くなるようで200巻(爆)の予定だという。
 現在、ようやく80巻が見えてきたところである。
 作者も僕も100巻で終わると思ってたのだけど、どうもいつもの長くなる病気で…まあ、グインが長く読めるというのは、幸せであるからどんどん書いて欲しい。
 この小説はもう10年以上前から書かれているはずで、読者はその人生の記憶とともにグインがあったりする。
 僕も最新刊が出る度に、リンク先の「Onion Party」のさくらさんのとこに感想を書き込みに行く(最近、ごぶたさしてましたが再開しました)。

 それで、この小説は豹頭の仮面(本物かもしれんが)の超戦士の主人公グインが活躍する物語なのだが、中国大好きの作者のためか、栗本版三国志とも言われている。

 中原の魔導の国パロ、北の強国ケイロニア、古代カナン帝国の末裔ゴーラの3大強国に対して、西方の謎の魔導の国キタイが絡み、覇を競い合うという物語である。
 主人公以外にも、多様で魅力的な英雄が数多く登場する。

 そして、そんな中のひとりとして、中原の歴史ある国パロに、クリスタル公アルド・ナリス(国王レムスにつぐ地位、王を継ぐ資格がある王家の一員)という女のよりも美しく、知略に優れ、人望、名声、才能に恵まれた男がいる。

 彼は、当初、冷酷無比で人を自分の道具として、手段としてしか考えられない人間でありました。
 ところが、魂の伴侶に出会い、次第に変わっていきます。
 相手はなんと男なんだけど、JUNE小説家でもありますから仕方ないですね。
  男同士だと世間に認められない分、愛情の純粋性、絆は深く、男女に見られる打算が排除される。そういう意味でのキャラクター設定です。 ここのあたりが、理解できない人が多いんですが、まあ、そこまで理解力がある人はなかなかいません。
  それを見抜いてしまう僕は非凡です(冗談ですから)。

 パロをキタイの侵略から守るために、彼は戦うことになるのですが(ネタバレ。でも、それでも面白さは変わらないと思います)身体が不自由になり、人の手を借りないと生きて行けなくなって、戦いの中で自分の周囲の人を失うことによって、彼らの愛情と忠誠に次第に気づいていきます。
 
 母に憎まれながら何の愛情のもらえずに育った彼の周囲には、どんなに才能や美貌に恵まれていても実は彼は見捨てられた赤子なのだという彼の本質を見抜いて彼を守ろう、それゆえに愛おしんでくれる人たちがいつの間にか集まっていました。
 彼はついに人を愛することができるようになり、自分が如何に愛されていたか気づいていきます。
   そして、最新刊では、彼を育てた冷酷無比な母親と対決して、愛情のない母親を何とか受け入れようとしますが、彼はわかってはいてもひどく落胆します。
 
 ここからは僕のまったくの推測ですが、栗本薫には障害者の弟がいるそうです。
 彼女の自伝的本の断片的な情報から、彼女が弟のために母親の愛情をもらえなくて(それは主観かもしれないけど、人にとって主観こそが真実です)、そのために後に拒食症をわずらい、その回復のために、JUNE小説(その本質は、前にも書きましたが、愛情の純粋性の追求です。愛情の欠如に対する心の叫びです)を書きはじめたのではないかと僕は考えています。
 投稿されたJUNE小説を批評した「小説道場」などの彼女の著作の中からもその辺のことは読み取れると思います。
 彼女自身もそのようなことを発言しています。

 そう、小説の主人公とは作者の分身であることが多く、アルド・ナリスがそうだとしたら、栗本薫は文庫本80巻を書き上げることによってようやく、母親に対する感情が出てきたことになります。
 
 何が言いたいかというと、幼い頃の人の心の傷の回復は一生続くし、自分な好きなことを真摯に求めて、正直に自分を解放して生きて行けば、いつか回復するのではないかということです。
 自分の過去の記憶や想いを直接的に表現することは難しいことが多く、間接的な芸術表現や生き方、行動によって、自分のしたいことをやっていくことこそが、心の傷を癒す、1番の近道ではないかと思います。
  人には無意識的な自然の回復力があり、それを発揮するためには自然の摂理にそいながら、生の体験を途中で止めずに
通り抜けながら、全てを受け入れながら生きて行くのが良いと思います。
 流れるままに、という感じでしょうか。
 


2000.11.13(月)
〜年末だからという訳ではないが、何かと忙しいというより単に疲れているだけかも知れない〜


 日記と云うより、もはや愚痴ですが、こういうのも後で読み返すと懐かしいなどということもあるかもしれない。

 それで、自戒のために「これからやらないといけない」こと、もしくは「やりたいなあと思う」こと、などについて書きとめておきたい。

 と、その前に、なんでこんなことになってるのか、考えてみると…。
 週末金曜日に三宮の方に旅立って、徹夜、授業、徹夜で日曜の朝方、自宅に帰ってくるのだが、疲れますねー。
 向うに行ってる時は気が張ってるので気づきませんが、それに、やはり、ストレス解消の時間がないですので、なるべくサウナとかでマッサージしてもらうようにしてますが、もう、年ですねー。
 それで、後の1週間は回復に勤めているとあっという間に金曜日です。はあ。
  もう少しパワー欲しいが、まあ、無理してもしかたないので、やることを絞り込むしかないだろうなあ。

 それで、「やりたいこと」ですが…。

 1.PAPAさんの投稿小説が送られて来ているのでアップしたい。(すぐに上げると云っておきながら、ほんとうに申し訳ない)
 2.11/1の日記の続きを書く。(内容的に重いので書き上げるのがちと大変なため、途中やめになってる)
 3. オンライン小説批評をなんとかしたい。(やると云っただけでそれっきり)
 4. 小説書く。(もはや、願望に近い)

と、かなり破綻が見える日記を終わります。

 

 

2000.11.1(水)
〜生きづらい時代1/成熟社会〜



 僕がAC/アダルトチルドレンというものを知るきっかけとなった、【家族機能研究所/IFF】http://www.iff.co.jp/の掲示板を知るようになってからそろそろ1年ほど経つ。

 最近、社会学者の宮台真司の『自由な新世紀・不自由なあなた』(メディアファクトリー、1700円)や、IFFの書籍販売コーナーの『嗜癖する社会』(アン・ウィルソン・シェフ著、斎藤 学監訳、誠信書房、2100円。ちなみに『嗜癖する人間関係/親密になるのが怖い』アン・ウィルソン・シェフ著高畠克子訳、誠信書房、2200円もなかなかの名著である)の「まえがきの解説」
http://www.iff.co.jp/frame/booksales.html
など読んでいたら、大学時代の卒業論文である「経済人類学と文明」を書いた時からあった長年の僕の疑問が氷解したような気がした。
 ミッシング・リングがすべて繋がったような感じで、全体の構図が一瞬にして見えてきた。
 僕たちの住んでいるこの世界とはどういうものなのか。
 そして、それはどうしてこのような世界になったのか。
 
 どういうことかというと、日本はその経済発展の代償として共同体が崩壊して、それを補完するために「会社」という擬似的な共同体をつくった。
 戦後の日本人は「会社」依存することにより適応し、国際社会で生き延びてきた。
 だが、その適応の形態は「個人の自己決定」というものを基盤としてもたないもので、環境(社会や家族などの外的な組織や価値)に依存する【AC的な過剰適応】であった。

 江戸時代には形成されていた個人の生き方として「親方日の丸」や「お上」に依存する体質は、ここに来て激しい経済変動により、行き詰まり、社会システム全体の転換を迫られている。
 戦後、自信と尊厳を失って、アメリカに依存して生きてきた日本を見れば、【自己決定をせずに何かに依存して生きるシステム】は一貫していることが見て取れる。
 このシステムは、個人で価値判断せずに「世間」とか「常識」などの「外的な価値」にすべてゆだねてしまうというものである。

 僕も含めて、ACと呼ばれる人々はその中でも「環境(家族や学校化社会などのシステム)に対して自分を見失うほどの過剰適応」をしてしまった人々であり、多くがその行き詰まりから「底つき体験」を経て、「生きづらさを自覚した」人々である。
 行き詰まらなくても、何とも言えない「生きづらさ」を感じて、「自分探し」のひとつとしてACに辿り着く人たちもいる。
 その過程はさまざまである。
 そして、ACであろうがなかろうか非常に「生きづらい」時代であることは確かだ。
 自覚があるかないか、どちらが偉いなんてものでもない。

 そう考えると、日本はとてもAC的な国である。
 AC理論でいうところの「共依存関係」
http://www.iff.co.jp/frame/booksales.html
が当たり前の関係として「社会的に承認」されている国であり、今までは多くの犠牲を払いつつ、何とか適応してきたということだろう。

 宮台真司によれば、いまや日本は「成熟社会」になりつつあり、今までのような「社会が提示していた、あるべき生き方」が通用せずに、「個人の自己決定によって生き方を決めなくてはならない時代」になりつつあるという。
 その過剰適応の反動のひとつが、生きづらさを自覚し、回復しようとするACであり、不登校や引きこもりであり、不適応から自暴自棄に走れば、少年犯罪となる。
 彼らの存在は、社会の歪みをいち早く感じ取る「炭坑のカナリヤ」(炭坑での酸欠を識別するために鳥かごに入れたカナリヤを持って坑道に入る)である。
 特別に敏感な人々であり、実はそういう反応をする方がむしろ、自然なのだ。
 「生きづらくない」と感じている人々は、おそらく、感情を麻痺させて耐えている人たちだと思える。
 ACを自覚しないのは、まだ、人生に破綻がなく(本人が自覚しないだけで、どう考えても破綻している場合が多い)、対症療法的に治療して持たしている、嗜癖によってやはり麻痺させつつ生きている場合が多い。
 僕の経験から云っても、犯罪者、DV/家庭内暴力の加害者など、悪人と云われる人は、幼少時の深刻な虐待やトラウマを抱えている人が多い。
 一見、社会的にも地位があり、魅力的で、悪人であるとは思えない人が多く、だけど、一様に幼児的である。
 このあたりの【悪の本質】については、エーリッヒ・フロム(社会学、心理学、ネオフロイト派の精神分析などを学び精神分析の手法を社会現象に適用し、社会心理学に重要な位置を占めた)の『悪について』(紀伊國屋書店、1320円)
にくわしいが、【悪の本質】とは「幼児退行」である。
 

 (中略、まだ、未完成ですが仮アップ中)


 
 さて、「自己決定による生き方」とは何か?
 アン・ウィルソン・シェフの『嗜癖する社会』によれば、
「登校拒否者、摂食障害者、薬物乱用者をはじめとする各種の嗜癖者たちは、こうした事態 の展開に違和感を覚え、現状に”ノー”をつきつける貴重な批判者である。

  彼らの逸脱は、 規範への同調の方向へと”回復”されるのではなく、従来の規範にパラダイム変換を生じざせる動きとして肯定的にとらえ直されねばならない。 すべての嗜癖者や逸脱者は、それぞれ の自助グループを発見し、自己破壊の道をたどることなく、「もう一つの生き方」(シェフのいうリビング・プロセス・システム)にたどり着く可能性を備えている。

 リビング・プロセス・システムとは自分の生命の過程を慈しみ、楽しみながら”自分のために”生きる生き方である。従ってそこでは、自分の内部に湧きあがる感情や欲求が大切にされ、外的な規範の拘束が排除される。
  リビング・プロセス・システムにそって生きる人は 自分の欲求を中心に行動しながらも、深いところで他人と調和することができる。というのも、私たちは元来、他者とのつながりを求めるという基本的な欲求を抱いてこの世に出てくるものだからである。
 こうした生き方をする人があちらこちらに見られるようになった時、私たちは「男らしさ、女らしさ、大人らしさ、子供らしさ」などの「らしさの拘束」から解き放たれ、自分の 必要と限界にそって楽に生きられるようになる。
  本書が提起しているのは、こうした”あたりまえの”知恵である。今私たちは、この種の知恵が見失われがちな社会に暮らしているが ために、シェフの問題提起が鋭く胸に刺さるのである。」
 
 さて、その生き方のヒントのもうひとつは、経済人類学者栗本慎一郎の著作『パンツをはいたサル』の中にもある。
 「新しい科学的発見は、決して学校化社会…」
 
 

インターネット日記「生きづらい時代2/嗜癖社会」に続く。


2000.10.29(日)
〜矢井田瞳/daiya-monde〜


 矢井田瞳のファーストアルバム『daiya-monde』を聴いている。
 デビューシングルの「B'coz I Love You」がやっぱり、1番いい感じで、次に Darlin'♪Darlin'♪のリフレインが心地よい「My Sweet Darlin'」が次にいいと思う。

 さて、彼女のアルバムとか、曲や歌を僕は気に入っているが、デビューの背景などにも触れておきたい。

 世間的には彼女は「椎名林檎のパクリ」なんて揶揄されることがある。
 確かに、声質や曲調が似ている。

 そもそも、売れ線企画の追求として「宇多田ヒカルのパクリ」と言われたこともある倉木麻衣で懲りた東芝EMIが、他社に真似されるくらいなら自社でやろうということで、インディーズレーベルの「AOZORA Records」で見い出したのが
矢井田瞳である。
サッカーのレンタル移籍みたいな感じで、
「AOZORA Records」に所属しながら東芝EMIでメジャーデビューしたようです。

まあ、売れる曲調というのは、時代によって変化はするけど
マーケティングとして、椎名林檎風のものが売れる時代に同じような感じのものを出すのは、そんなに的外れではなくて時期を外さなければ売れると思う。

それにそのお蔭で、矢井田瞳という魅力的なアーティストが世に出たのだから僕はよかったと思う。
 結局、ファンになってしまってたりするのだ(爆)。

 


 
2000.10.21(日)
〜iモード事件/松永真理/企画の練り方について〜
 

  今日は、前の日記で触れた本「iモード事件」(松永真理著/角川書店)の続きなのですが、「iモード」の開発過程の中で、「何かものを作るための基本的考え方、やり方」というものが描かれていて、非常に興味深かった。

 まずはじめに、企画というか色々なアイデア出しをする際に重要な点として

(1)ブレインストーミング/アイデアの練り方

  これは実現不可能とか、アイデアを規制せずに自由に発想することが大切だという。あくまで、プラス思考でリラックスした状態で思ったり、感じたことをどんどん口にする。

 この本の中では、1千万の費用をかけてドコモの会社の中に「クラブ真理」(むろん、この名前は、松永真理さんにちなんでいる)というお酒が飲めて、リラックスできる部屋を作ったりしている。
 そこに「テレビの放送作家」やドコモの社員、まったく関係ない人でも気軽に立ちよれる雰囲気をつくったという。
 
 ドコモは「iモード」のために世界的な経営コンサルタント
会社 「マッキンゼー」
http://www.mckinsey.co.jp/index.html
(よくは知らないのだけれど、大前研一さんが副社長?か何かをつめていたような)のコンサルタントを招いてこのプロジェクトのサポートをさせたが、「コンサルタントはNOという義務がある」というマッキンゼーのポリシーから「理論的な経営戦略」と「嫌われ役」に徹する彼らとしだいに対立を深めていく。

 松永さんは転職情報誌「とらばーゆ」以外にも雑誌を創刊しては成功させてきた根っからの企業内起業家で、やたらに身体に電気が走る直感的、現実的な人なので、彼らと対立するのも無理もなくて、逆にクライアントと同化しない「マッキンゼー」 のおかげで「iモード」の企画が出来上がっていったようにも思える。

(2)ターゲット像を明確にしてイメージをつくる

 ターゲット像のライフスタイル、趣味、年齢、好きな音楽や、好きな車、平均給料の額など「具体的に」絞り込んで、「イメージ」を作る。
 「キーワード」などのコピーも大切である。
 この「イメージづくり」は後の過程でも非常に重要になっていく。
 松永さんの場合は、ひとりの明確な人物像を具体的にイメージしていくという。
 
(3)ターゲットイメージからコンセプトを固める

 ターゲットのイメージが出来上がると、彼らがどんなことを望むかとか、行動パターンが明確になり、そこから必然的にコンセプトも固まってくる。
 ここではアイデアのみならず、市場に対する分析力や考え方の枠組みも必要である。
 が、最終的なイメージづくりには、「人の心を揺さぶる何か」、作り手である松永真理の「閃き」というのが決め手になった。

(4)プレゼンテーション

 まだ、見たこともないものを説明する際に、(2)で明確化した「キーワード」「イメージ」がここで生きてくる。
 話を聴いている相手に伝わりやすく、イメージしやすいものほどよい。

 それと同時に、相手を説得するためには「はったり」も必要である。
  銀行の預貯金照会振り込みサービスのための都銀の説得においては、「ドコモ看板」や松永さんが「政府税制委員」をやっていた経歴、某財団の御曹子、笹川君の存在、夏野の銀行の横並び意識を利用した説得術もあった。
 まだ、はじまっていないサービスに対してどうしてもそういうものが必要になってくる。
 都銀が乗れば、それが他の会社を説得するための「信用」
となり、 それが連鎖反応的に広がっていく。
 最初は「虚」だったものが、「実」に姿を変えていく。
 まあ、しっかりとしたコンセプトの練り込み/内容があったからこその成功ではあるが。
 最後の重要な決断は、いつも、松永さんのビビッ!と電気が走るという「直感」 だったりするのだが。
 このやり方はそういう閃くための方法なのかもしれない。

 この(2)(3)(4)については僕がコンピュータスクールでポスターなどを制作する際に学んだことと共通していたので大変、参考になった。
 
 とはいえ、現実にそれを実行していく行動力が一番大切なのだけれど。
 
   




 


                  2000.10.21    


● 今後の予定ネタ/ネタがありすぎて、でも時間がなくて、アップ予定ないけど、ちょっと解説

〜ソニーの野望/セガとNTT〜
 PS2がこけたので、ソニーの世界征服も難しいのかも知れないが、ここに来て、ソニー、トヨタなどの有力企業をアメリカが危険視している。理由は、1兆円ほどの資産をもつといわれる両企業が銀行を設立しようとしていることにある。
 そうなると、ただの1企業がおよそ30億円ほどの資金を持
つことになってしまい、その辺でアメリカがいちゃもんとかつけてくるかも知れない、などと思ったりした。
 が、世界の多国籍企業はもっともってるのではないの?と
思ったりもする。
 これにドコモとかセブンイレブンなどのイトーヨーカド−グループも加わる訳だが、日本のその他の企業は軒並み、アメリカなどの外国企業に買収されつつあるのが、今の日本の現状でもある。


〜ISOと官僚天国/新たなる利権〜
ISOとか、結局、官僚とかの新たな利権でしかないという話
です。パチンコのカードとか、チャイルドシートとか、盗聴法とか、いろいろあるね、利権と天下り先。

〜至高体験/物理学とトランスパーソナル心理学〜
脳の快感システムと物理学と心理学、実は関連があると言う話。内容忘れましたけど、そのうち似たようなことを書くでしょう。

〜愛と暴力と共依存、そして、贈与論〜
愛と暴力は紙一重、共依存とは、自分の存在を相手に贈与して圧倒するものではないかと言う話。
実は贈り物をもらった方が立場が弱くなると言う話。それから逃れるためにお返ししたくなるようです。       
  でも、詳しい内容忘れましたね、これも。











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