インターネット日記/週刊誌的考察33
 (インナーチャイルド日記気味)



新世紀、2001年5月の日記

▼今年の方向性としては、情報化社会のなかで混乱しないための
「情報処理の仕方/モノの考え方、見方」をメインテーマとしたい
と思います。しかし、誤報も多い。素直に反省。とほほです。最
近「インナーチャイルド日記」ともいうべき、内省的な愛と苦悩
と自立と成長(であってほしい)の日記となっています (かなり
嘘っぽい)。

@ 戻る


 



 
2001.5.20(日)〜 書かなかった、カキコミ日記2〜


[5860] 共感 投稿者:いるか(こども) [中国] 投稿日:2001/05/20(日) 14:09

厳密に云えば、人の感覚は誰ひとりとして同じ人はいないのに、共感することができるのはどうしてだろうか。

理論的に考えれば有り得ないことである。

それは、似たような共通の環境、体験をもつことにより相手の気持ちを想像したり、推測したりできる能力を人が与えられているからだ。
そういうのを共感能力と云う。

そもそもこれだけ多様な人がいるというのに人間の遺伝子や構造は99.8%まで同じである。
「同じ人間である」という事実を無視して、ただ、その差異だけをあまりに強調しすぎるのはどうかと思う。

そもそも、人は必ず死ぬし、みんな孤独である。
そういう意味では、みんな悲しい存在であることは明らかなのにどうしてその差異だけを強調するのか。

他人の感覚と自分の感覚は確かに違う。
それを越えて、何とか相手を理解していこうとするのが共感能力ではないかと思う。
そのために、別に自分の個人的意見を変える必要はないし、相手がどのような生い立ちで、どんな人生を歩み、どういう想いで生きてきたのか、知ったり、聴くことによって、ある程度相手のことも分ってくるのではないかと思う。

その際、気をつけなければならないのは、やはり、人と自分は違うということを自覚することである。 同じではないので、全てに共感することはどだい無理な話だ。
少しでも共感してくれるその「気持ち」が僕は嬉しかったりする。
それでいいのではないかと思う。

それを認めないというのはあまりにも「完璧主義」すぎやしないかと思う。
そう思うのは勝手だが、それは大層「生きずらい」人生だと思う。

自分の「生きずらさ」を生んでいるのが、他ならぬ「自分」だという笑い話である。
-------------------------------------------------------------

[5859] 自己承認 投稿者:いるか(こども) [中国] 投稿日:2001/05/20(日) 13:41

他人の評価とはまったく関係のない、自分なりの生きる意味を掴むことが自己承認だと思う。 それがわかるまでが大変なんだけど。

僕もまだ、見つけてはないが、何となく朧げに見えてきつつある。


緊急提言:生きるということ
今回のテーマ:社会に対応できない!!
Google検索【自己承認】



2001.5.14(日)〜 書かなかった、カキコミ日記1〜


■ 今回、学んだこと1 ■ざっきー(管理人) 投稿日:2001年5月14日<月>
00時14分

IFFのメインの掲示板のやりとりを見ていて学んだことがある。

確かに人は、他人の気持ちや考えを理解したり、共感することは厳密に云えば無理かもしれない。 奇跡のようなことかもしれない。

個人の指紋や瞳の光彩が、人それぞれ違うように、脳のレセプター(受容体)にも個人差があり、神経回路の接続パターン(かなり柔軟で変えることができるので、人の考え方や物の見方は変えられる)も経験により変わるので、人の感覚や感じ方は厳密にいればまったく違う。

では、どうして共感したり、誰かに自分の気持ちをわかってもらえたと思うことができるのだろうか。奇妙である。

それは厳密に云えば、単なる錯覚、思い込みである。
レセプターは違うから当然である。
それは「幻想」とも呼ばれる。
人はそういう「幻想」によって生きている。

だけど、人は厳密に云えば「孤独」であるし、だからこそ、誰かが自分の事を思ってくれることは、とても嬉しいもので、僕はその気持ちをもってくれただけで、その人の事をありがたいと思う。
本当は「孤独」だからこそ、その思いが嬉しいと思う。
それでいいのだと思う。
そうやって人は生きている。

それとヒトゲノムの解読結果によれば、人類の遺伝子は99.8%まで同じだと云う。
たった0.2%の差異と環境要因が、これだけ多様な個人差を生むのだけど、逆に云えば、それほど共通点が多いということでもある。
人として、そういう共通点を全て無視するというのは、あまりに視野が狭いのではないかと思う。

しかも、人は同じような体験をしている人に出会うことができる。
実はこういう視野の狭さこそ、強烈な「完璧主義」であり、「生きずらさ」の原因である。
人は適度に「いいかげん(中庸)」であった方が生きやすいと云うことになる。 そういう人は、例えば「自分の手のひらを顕微鏡で見て、ばい菌が見えるので、手を洗い続ける」というような、はたから見ればあまりにも滑稽な行動をとっているようなものだ。

実はそういう自分が「馬鹿げた極端な考えにとりつかれている」ことを認めることが出来ない原因と云うのは、強烈な「羞恥心と罪悪感」である。
家族によって刷り込まれた奇妙な「罪悪感」や自分が馬鹿げた行動や考えにとりつかれていると云うことや生きていくために必要な技術を修得してないということを素直に認めることが出来ない、妙なプライドの高さを生む「羞恥心」というものがそのことを邪魔するのだろうと思う。


■ 今回、学んだこと2 ■ざっきー(管理人) 投稿日:2001年5月14日<月>
00時14分

このあたりのことはAC関連の著作にはだいたい書いてあるが、「インナーチャイルド―本当のあなたを取り戻す方法」ジョン ブラッドショー (著), John Bradshaw (原著), 新里 里春 (翻訳)が詳しい。 amazon.co.jp

勉強が出来、高度な知識や技術をもっていて学歴が高い、ということは、それ以外の生活するための生きていく知恵をもっていることとイコールではない。
むしろ、高学歴化が、現実の社会や人との接触時間を減らし、ほとんど家庭でしか得ることの出来ない、感情の処理や行動の仕方 のモデルである両親は、ACの場合、特にその機能をまったく果たしてはいない。

世界的に見ても、そういう傾向は強まっていて、学校でそういう生きる知恵を教える必要性が高まっていると云う。
参照「EQ―こころの知能指数」講談社プラスアルファ文庫、ダニエル ゴールマン (著), Daniel Goleman (原著), 土屋 京子 (翻訳) amazon.co.jp

だから、アルコホリックの12ステップでは、自分がアルコールに対して無力であり、自分では自分の行動をコントロールできないことを何度も認めて、全てをハイヤーパワーに委ねる必要があるのだ。

つまり、自分がどんなに馬鹿な行動をとってきたか、自分の物の見方、認知のシステムがどんなに奇妙なことか素直に認めて、自分が心の病いであり病気であることを徹底的に認めることが大切になる。


■ 今回、学んだこと3 ■ざっきー(管理人) 投稿日:2001年5月14日<月>
00時15分

そういうことを認めることは「自己否定」(自己非難とは全く違う)と呼ばれ、大変難しいことである。
「自己否定」とは自分が生まれ変わり、回復するために、自分を白紙に戻すことだけど、人生が魔術的な力で成り立っているという誤った考えを捨て去ることでもある。

例えば、英語をしゃべれる人は才能があるからだ、自分は才能がないからダメなんだと云う思い込みがある。
確かに才能もあるかもしれないと思う。
そういう人は多くの場合、英語をしゃべっている人の結果だけを見て、それが単語を地道に覚えたり、何度もヒヤリングの訓練をつんだり、外国人と会話の練習をしていることなど考えもせず、ただ「才能という魔法」によって全てが解決すると思っていたりする。
どんなに優れた才能をもっていても、そういう訓練を積むか、外国で暮らす必要性に迫られなければ、決してそういうものは修得はできない。

では、どうすればいいのか。
好きなことを見つけて、それをやればいいのだと思う。

どんなに怠け者だとしても、自分の好きなことやりたいことに対しては努力を惜しまないし、というより努力だとは思わないことが多い。

それにしても言葉というものは、前後の脈絡の中で意味を為すし、あまりにひとつの言葉に焦点を当て過ぎるとやはり視野狭窄に陥る。
そういう認知の歪みを正すには、自分や他人のの書き込みを何度も読み直すという簡単な方法がある。
IFFの過去ログがなくなってしまったのは痛い話で、そういう他人の経験や考え方を読む、本など他人の考え方を知ると云うことによって視野というのは徐々に広がっていくものなのだが。

そもそもこの世の中は自然法則、摂理と云うものがあり、それによって世界は動いている。
それを見るためには「素直な心」が不可欠である。
現実をそのまま見る視線といってもいい。

ACが親の虐待や暴力によって、その物の感じ方や見方という認知システムの歪みが生じたとしても、他人や親を変えたとしても それは治りはしない。
すでにそれは親の問題ではなくて、自分自身の問題になっているのからだ。

結局、自分に向き合い、現実を見つめる「素直な視線」が回復への最大の武器だと言える。



2001.5.20(日)〜 素直に生きる/他者承認と自己承認〜

回復と成長がはじまると世界の見方が変わってくる。

自分の変化が世界観を変えるのだと思う。

どんなに受け入れがたくとも、人はみな、自分が望む通りの人生を歩んでいる。 こんな人生、望んじゃいないと思っても、自分でも気づいていない怖れと恐怖心や不安も特に羞恥心がその人を縛っている。
罪悪感と云うのもあるが、羞恥心の変形のような気もする。
自分で自分を縛り付けていて、ただ、それを手放せばいいのに気づきもしない。

特に羞恥心は変なかっこつけとプライド(ネガティブな意味で、他者承認を求める心である。理想の高さ、完璧主義である)を生み、本当の自尊心、誇り(自己承認)が育つのを妨げているように思う。

自己評価の低さと云うのは、たぶん、理想や期待している自分のイメージと自分の現実のギャップを認めることが出来なくて、生じるものだと思う。 そういう期待を捨てて、かっこわるくとも自分を誤魔化さずに、そのままの自分を認めて生きれば、自己評価は下がりようがない。 要するに単なるかっこつけと、変なプライドが高いだけである。

とはいえ、そういう生き方、自分に向き合うのは並み大抵ではない。
それができなくとも、それこそ、完璧主義なので、徐々にできるようになればいいのだと僕は自分に言い聞かせている。

でも、そういうことが見えてくると、まわりの人たち(僕自身もそうだが)がいかに自分を騙して生きているかが分ってくる。

どうも、そういう人たちは、回復と成長と云う変化が起こりつつある人を鋭く嗅ぎ分けてその成長を妨げようとしてくるようになるらしい。
師と仰ぐ先輩もそういっていた。
自分もそうしたいのに、恐怖心や怖れからそれができないので、人がそうなりつつあると嫉妬して不安になるようだ。
成長しようとしている人が失敗したりつらい目に合うと、自分がそうであるように落ち込んだり、あきらめたりするのを喜び、自分の不安を抑えようとして安心するためにそうなることを期待するようになる。
現実を知らせると云う口実の元に、その人も自分と同じように感じることを強制したりしはじめる。
会社の先輩などの数人がそういうことになっていくのを見て僕はとても驚いた。

別に人はそんなに自分の仕事や自分の事を卑下する必要もないし、夢みたいなことを期待している訳ではなくて、何歳になっても自分の可能性を追求していくのがいいのではないかと思ったりする。

好きなことをして、地道にちょっとずつ進めばいいのだと思う。
その分野で必ず一流にならないといけないという考えは、何か変だと思う。
人にはそれぞれ、その人の器と云うものがあり、それにしたがって、それぞれの役割があると思う。

天才は別として、それに今、一流の人でさえ、段階を経てそこに辿り着いているはずなので、結果だけを見て、判断するのはおかしいと思う。
そもそもそういう人たちは、一流になるために(要するに他者承認)のためにそういう仕事をしている訳ではなくて、そういうことをするのが好きなのでそうしている(自己承認)、たまたまそういう仕事をしているというだけのことである。

他者からの承認を得るためにそういうことをしてはいけないと思う。そもそも考え方が間違っている。
本当に好きな人だけが、本当の一流の仕事をするのだと思う。
本当に好きな人だけが色んな苦難に耐えられるし、努力もする。その努力さえも好きならば努力とは感じないし、その人にとっては当たり前の事である。

そうはいっても、ほんとにそういう風に自然に、素直に生きるのは大変、困難なことなんだなあと感じている。

最近、「ずっとやりたかったことを、やりなさい。」ジュリア・キャメロン (著), 菅 靖彦 (翻訳)という本を読んでいる。amazon.co.jp

関連本で「働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか」中島 義道 (著) とかも読んでみたが、 amazon.co.jp

自分を誤魔化さない生き方と云うのは大変みたいだ。

適度に心のモルヒネを打ちつつ生きていくほうがいいとも思う。

どうせどちらも生きずらさは変わらないのなら、誤魔化さないほうがいいかもと思うだけだ。

人はいつか、必ず死ぬのだから。 忘れがちだけど。

それと僕はてんかんなので、ADHD(注意欠陥障害)的問題を抱えている。 大人専門 ADD/ADHD

てんかんとは厳密には違うのだが、症状が似ているので、このあたりも見つめ直して、自分の生きるための戦略を立て直そうと思う。

ちょっとずつ気づいていないネガティブな感情をとり除いて生きていきたい。

過去を振り返るのはそのためで、それをやれば本当に自由な人生がおくれるようになる。










@ 戻る



このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ