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▼ 第13回投稿作品 ▼



「無題」




こうして作成の場に向かい座り続けていても
何も頭に浮かばない、その作業を執筆と云うには
私の膝に置かれたキーボードが言葉の形を拒んでいるらしい。
いいや、キーボードを見つめる自身の意識が、だろう。
自分の所在無さがある一定値まで凡庸且つ無情な日々の
経過から蓄積されてくると、何か無意識に呼ばれる様に
キーボードを膝に据えてモニターを見つめている。
木目の壁紙に包まれた自室には二つの音だけがする。
暖房の小型ファンヒーターが小さく震える様な音、
リクライニング・チェアで気だるそうに腰をかける
私の膝の上からキーを叩く音

文字は羅列され言葉に、言葉は編成され文章に、
しかし私は続けられない。すぐに調子を狂わせて
キータッチを間違える。
瞬間、私の無意識は2ヶ月前まで確かに
存在していた私の左腕を想う

出勤途中に雑踏の中で通り人にぶつかられ
不格好に転び倒れると、左脇に抱えていた
ノートパソコンが歩道を越えて投げ出された。
誰なのかも知らぬ後ろ姿は一言も無く雑踏の中へ消え、
私は相手の無礼よりも大切な道具であるノートを取り戻そうと
白塗りのガードレールより首から上と左腕を潜らせ、
サッと手を伸ばしたと同時に背中の方からタイヤが
アスファルトと摩擦する高い音を聞く。
驚いたと云うより反応で振り返ろうと手を止めた一瞬が、
それが左腕の最後の時だった。
白い4WDが左折と同時に私の伸びきった左腕を
めり、と云う材木でも無理にしならせたかの様な音で挽き
そこで急ブレーキをかける。すると丁度車の後輪が私の
左腕、肩口の上でとまる。耳元で高い悲鳴の様な音が
聞こえたか?私は私自身の悲鳴のみ明確に覚えている。
恐ろしいのは運転していた者が不慣れで動転していたらしく
私の存在と己の所行に気を壊した彼は、
なんと車を急いでバックさせ…つまりもう一度私の左腕は
4WDの前輪で『ぎゅ、めみみ』と云うか
今となっては言葉に、文章に表すのもおぞましい音をたてて
念入りに…したつもりは当人に無くとも、使い物にならなく
されてしまった

そんな不運に見舞われた私の職業はプログラマーだった。
過去形だ。右手だけで捌ける私の処理量は入社1年の
新人にも劣る、それで仕事を人並に任せられる事は無い

身体障害者としての生活手当は微々たるもので
再就職の宛は特に無く、時間はほぼ一日中余っている。
友人の一人から本を出版してみたらどうだと進言されて
私は文章を書くように努めている、つもりだ。
今回の不幸を基に自伝でも出せと云う事だったのか、
しかし私の性分が自分を障害者として世間に
伝える、知らしめるゼスチャーを拒んでいた。
私はこんなに不幸なんですよ、等と伝えるのは恥に思える。
そんな不幸なのに一生懸命頑張って日々を生きています等と
賛歌するのも嫌だ。
それ以前に今は頑張って生きているわけでは無い。
退職金と慰謝料で838万、月々の手当が7万3千25円、
その金も喪失された左腕の悲壮を忘れさせてはくれない。
むしろ私の身体の、一部品の値段かと思うと腹立たしく
眠れない夜を数える気も無い。既に存在しない筈の
左腕の悲鳴で目を覚ます事もある。夢から覚めた時は
もう夢の中にだけしか存在しない己の左腕が愛しい

泣きたい気分の手前辺りで私の心に制動が掛かる。
この呻きを自伝に連ねるには耐えられない、
例えばこの身でも立派にプログラマーとして日々過ごせるなら
…そんな自伝なら私も金を払って読んでもいい。
この生き方に慣れるのは少し先なのだろう。
私は、そこに無い左腕で何かをしようとする度に
酷く落胆する。左肩だけを前後にぐいぐいと動かして
無に吠える気分になるが何も漏らさず、只々
右拳を握り締めて震えるのだ。左肩に右手をあてると
より一層の無情を味わえるので、二度と左肩には触れない

文字は羅列され言葉に、言葉は編成され文章に、
しかし今の私に書き出せる事は何も無い。
望んではいない、形にすれば自虐でしかなくなる。
むしろ


私の中で左腕が『完全に死んだ』その時から
何か出来そうな気がする。
それまで、今はチェアーで沈んだまま



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                       1999.1.3










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