楓の身体に、もう何度目かの蹴りがめり込んだ。 風神による防御はすでに不可能になっている。 「死音」という技は攻撃の時は相手の回避の目測を狂わせ、防御の際はやはり、急所への致命的な一撃を避けることができる、攻防一体の技であった。 まさに、ひたひたと死への階段を下っていくように、楓の体力は削られ、一方的に攻められ続けていた。 それは、相手の力と技を引き出して、それを受け切って、さらに最後には勝つというプロレスラーの対極にある戦い方であった。 相手の力をすべて封じ込めて、反撃もさせずに倒すというやり方は姫子らしくなかった。 かつては偉大なプロレスラーとして、女子プロレス界に君臨した”デビルクイーン”こと十文字姫子の戦い方では、断じてなかった。 楓は、途切れなく降りそそぐ技を、神経をすり減らしながら受け続けるしかなかった。それでも、幾らかは急所に入り、その度にダメージが蓄積していく。 楓は今でもプロレスラーとしての姫子に憧れと尊敬の感情を抱いていた。 技の痛みがはしる度に、楓の心は何故か、姫子のために悲しんでいた。 秋月流への恐怖、敗北することへの畏れ、数十年にも渡る女王としての誇りと矜持が、彼女を追い込んでいったことが自然と了解された。 そもそも、森谷美奈子により仕掛けられたシュートプロレスにしても、それに続くこの乱入そのものが、早めに楓を潰そうという意図のもとに強行されたのは誰の目にも明らかだった。 そして、秋月流の、はっきりいえば神沢恭子の亡霊への怖れが、玲奈の父親である、秋月小五郎の禁断の技への誘惑に膝を屈する結果になってしまった。 でも、果たして自分もそうではないと言い切れるだろうか。 楓もまた、再起不能の崖っぷちから生還するために秋月流を選んだのではなかったのか。 いや、それは違う。 自分はプロレスラーとして勝つつもりだ。 そうでなければ、勝ったとしても、意味がない。 だが、このままでは、秋月流の奥義を出さなければ勝つことは難しいだろう。 どうすればいいのか。 迷いはじめている楓の心を知っているのか。 追い込んだ手負いの獲物をいたぶるように、女王は楓に決定的な一撃を放つことはなかった。 アマレススタイルのスポーティな水着から露出している、楓の四肢はみるみる赤く、腫れあがっていく。 じわじわと獲物が弱るのを待つ肉食獣のように、静かに技を重ねていった。 観客は、あまりの展開に思考停止に陥ったのか、誰も立ち上がろうとしなかった。 静寂の中で、肉体が悲鳴を上げる音だけが響いている。 長い戦いに、ついに決着が着こうとしている。 そんな予感につつまれた人々は、息を飲み、静かに終末を待っているかのように身じろぎもしない。 ふいに、姫子のミドルキックが楓の防御をくぐり抜け脇腹を打った。 楓は、息をつまらせながら、衝撃でリングの外へ転がり落ちる。 しばし、インターバルのような時間が訪れる。 楓は何かに導かれるようにセコンドの恭子に視線を向けた。 神沢恭子が、この試合ではじめて口を開いた。 「楓!」 叫ぶでもなく、囁くでもなく、不思議によく通る声が楓に届いた。 それで、全てが伝わっていた。 楓はうなづく。 迷うな、全力で闘えと言っているのだ。 恭子の口癖だった。 確かに楓がいくら悩んでみても答えのでるはずもなかった。 考え込むのは、楓の柄じゃない。 「まったく、どうかしていたわ」 楓の顔に笑顔が浮かんだ。 もう、迷いは消えていた。 「勇吾殿、果たして、あの娘に”風神”が宿るかのう」 秋月六郎は、いたずらっこのような無邪気な表情で勇吾に問いかけた。 リングサイドの席にちょこんと座っている姿は、まるで子供のようにはしゃいでいた。 「師匠がわからないのに私に判るとお思いですか?」 「いや」 「なら、聞かないで下さい」 勇吾は苦笑するしかなかった。 「それはそうじゃな」 どうも時々、この老人の事が解らなくなることがある。 師匠とは言え、一筋縄ではいかない相手だというのは勇吾も承知しているが、いつも予想を上回る行動に勇吾も振り回されっぱなしなのだ。 実は一番、謎めいているのは、この男かも知れない。 勇吾は常々そう思っている。 とにかく、底の知れない男なのは確かだ。 「風神か・・・・・」 それは秋月流独特の技のシステムにより機能しはじめる。 過去の使い手たちの記憶の総合体、それを直接、伝承者の無意識に送り込んで、技の自動化を行うという奇想天外な秘技の ひとつである。 だから、身体は自然に動く。 しかも、それは秋月流最高の使い手たちの経験と精神が宿っている。 だが、欠点もある。 そのためには、天性の運動能力とそれを磨く独特の訓練を積み重ねることが要求される。さらに、最終的に優れた素質があり、それが、秋月流の先達たちの精神体によって、承認されなければ使えない技でもあるのだ。 果たして、楓にその資格があるかどうかは技を放ってみなければわからない。 それは、勇吾もまた、超えなければならないハードルでもある。 六郎がこの試合をわざわざ彼に見せているのもそういう意味があるからだろう。 ひとつのイニシェーションと言えるかもしれない。 秘儀に参入するためのひとつの儀式のようなものか。 だが、解らないのは小五郎が何故、秋月流を破門になったのかということだ。 そのことについては、六郎も「いずれ話す」というばかりで勇吾にも決して語ろうとしない。 ひとつ確かなことは、秋月流の全てを知っているのは六郎しかいないということだ ひょっとすると一番、恐ろしい男はこの六郎なのかもしれないと、勇吾は思いはじめていた。 そんな想いにかかわりなく、マットに帰還した楓は不思議と静かだった。 何かが吹っ切れたような晴れやかな表情で姫子を見つめている。 すっと、楓が踏み込んだ。 それは何の前触れもなく、そして、気づいた時には、いつのまにか姫子の間合いに入っていた。 すでにその間合いは、打撃の間合いではない。 突然、姫子はフロントスープレックスで投げられていた。 一体、何が起こったのか。 姫子が立ち上がった時にはすでに楓は安全圏に退いていた。 姫子の顔には得体の知れないものへの恐怖が、はっきりと浮かんでいた。 楓は静かだ。 ふたりの呼吸の音だけが、かすかに会場に響いている。 本当に静かだ。 静寂が時間を止めるかと思われた瞬間、全く予備動作なしに楓が動いた。 今度は打撃の間合いだ。 「無拍子………」 その瞬間、姫子は楓の技の正体を見抜いた。 『無拍子』とは、実は柔術の基本中の基本の技である。 だが、それを本当に極めたものは、無敵になると言われている奥深い技でもある。 武道と言うものは、そもそも、反復訓練を積むことにより反射的に技が出るようにする技法である。 そして、その反復練習が、その使い手に一定のリズムを必然的に与えてしまう。 自動的に反応する回路が出来てしまう。 もし、その反応の回路を切って攻撃したとしたら……。 相手があたかも、「いつのまにか」接近して、技を仕掛けられてしまうことになる。 反応できないのだ。 しかも、人は息を吐いた時に最も力を発揮するが、呼気と吸気が切り替わる一瞬の間では、全く力が出せない瞬間がある。 その瞬間を突くことを、呼吸を盗むといい、古から武道の奧義であった。 しかし、気づくのが遅かった。 いや、気づいたとしても、果たして躱せたかどうかはわからない。 姫子が気づいた時には、楓の右足は舞い上がり、左の側頭部を捉えようとしていた。 姫子も咄嗟に対応したのは流石であった。 が、彼女の左腕はそのまま、ガードごと砕かれる。 次の瞬間には、楓の左足が姫子の右足を破壊していた。 そして、楓の右足が前蹴り気味にみぞおちに入り、回転した瞬間、姫子の身体は宙を舞っていた。 それは秋月流の秘技のひとつ『春嵐』であった。 楓の尋常ならざる必殺の蹴りは、姫子の足と腕を砕き、彼女の身体を空中へと蹴り上げていた。 楓はすでにその落下点に向かって移動しつつ、ジャンプして 投げを放とうとしていた。 そして、落下の衝撃と楓のパワーボムが姫子を包んだ。 姫子がマットに叩きつけられた時、ついに、この長い戦いは終わりを告げようとしていた。 たとえ立ち上がったとしても、彼女に戦う力は残されていないはずだ。 「優しすぎるわね」 セコンドの神沢恭子はぼそりとつぶいた。 本当の『春嵐』は、そのまま頭から地面に叩きつけるはずの技。 足と腕を砕いた時に勝負はついているとは言え、武道家としては、甘過ぎると恭子には思えた。 結果的にはその甘さが仇となってしまったのかもしれない。 異変は、楓が姫子から離れようとした瞬間に起こった。 次の刹那、姫子の裏拳が楓の顎を捉えていた。 全く予備動作のない技……。 無拍子の裏拳。 それは恐るべき天才だけが一生に一度、出せるかどうかと言うタイミングで楓の意識を弾き飛ばした。 そのまま、残された左足1本で立ち上がり、右手だけで楓をブレンバスターで抱え上げると、垂直落下式に落とした。 『ヘブンズゲート』 それは神沢恭子を倒した、思い出の技であった。 全ての力と技を出しつくし、ゆっくりと姫子は倒れた。 彼女の顔には会心の笑みが浮かんでいた。 <つづく> 1999.10.24 ▼次回予告「ただ、プロレスラーとして/邪悪な月」▼ 力尽きた姫子は、楓にある願いを告げる……。 それは………。 |