少女格闘伝説2

 



『帰ってきた少女4』









 案の定、先に動いたのは美奈子だった。
 するするとなにげない様子で、間合いに入るといきなり
蹴りを放ってきた。
 ローキックである。
 二、三発いいのが、楓の両足に入った。
 楓も定跡通りに、膝を少し曲げて、足を浮かせて丁寧に
防御する。衝撃を巧みに逃がしている。
 柳に雪折れなしという、諺がある。
 空手などの試し蹴りで、バットを三本ほどまとめて、固
定して折るというデモンストレーションがあるが、実はあ
れはコツさえ掴めば意外とたやすく折れるものだ。
 しかし、風になびく柳のあのか弱い枝を折ることは、か
なり難しい。力が分散されるからだ。
 それでも美奈子の蹴りは、新人離れした威力を持ってい
た。同期のレスラーで美奈子の蹴り技を三発以上受けて、
立っていられる者はほとんどいない。
 楓はそんな蹴りを平然と受け流している。
 体力、耐久力もさることながら、基本の技術力の高さは
群を抜いている。が、観客はそんなことに気づかない。
 およそ三年のブランクは、プロレスファンの頭から柳沢
楓の名を消し去るのに十分な長さである。名前も知らない
レスラーを応援するファンはいない。

 突如、美奈子の左足が加速して、楓の側頭部を襲った。
 美しい軌跡は残像さえ残さない。
 綺麗なハイキックだ。
 楓が右手のガードを下げたわずかな隙を逃さず、美奈子
の足が跳ね上がったのだ。
 ノーガードでまともにくらってしまった。
 楓の身体がロープに吹っ飛ぶ。
 大げさな演技に見えるが、楓の意識は既に飛んでいた。
 本能的な回避行動が働いて、楓の身体はロープの間から
 リング下に滑り落ちた。
 半ば無意識の行動である。
 20カウント以内に生還できなければ、そこで勝負はつ
いてしまう。
 リングアウト負けだ。
 だが、楓の魂は夢の中をさまよい、一向に還ってくる気
配はなかった。

 「………まずいわ」
  神沢勇の表情はいつになく厳しかった。
 「どうして?お得意の演技じゃないんですか?」
  風森怜が不思議そうに尋ねた。
 「確かに、いつもならそうかも知れないけど。いくら楓
先輩が受けの達人でも、ノーガードで頭へまともにくらっ
たら、ひとたまりもないわ。そんなに甘い蹴りではないわ」
 怜は動揺した。
 柳沢楓は、受け身に関してはスペシャリストである。
 試合中にその特性を生かして、いわゆる”死んだふり”
をすることによって試合を盛り上げ、逆転を演出したのは
一度や二度ではない。まさに千両役者、『逆転の魔術師』
の仇名(あだな)は伊達じゃない。
 が、今回だけは勝手が違った。
 回り込んだカメラが、うつ伏せに倒れている楓を捉えた。
 リング下の楓の身体はぴくりとも動かない。
 無情にも、アウトカウントは続く。
「楓先輩!立ってください!」
 勇は、闇の中で輝くブラウン管に向かって叫んでいた。
 録画のはずのテレビの試合画面の中には、そんな声は届
くはずもなかった。
 頭では分かっていても、口が自然に動いていた。
「こんなんで負けたら承知しないですよ!私ともう一度、
試合をして下さい!……約束したじゃないですか!」
 だが、勇の願いは、むなしく虚空に消えてゆく。

 いつしか。
 勇の心は『あの日』へと遡行していた。
 勇とのプロテストで肩を砕かれた楓は、ベットの上から
勇に優しい言葉をかけた。
「あなたは気にしなくていいのよ。私の受け損ないよ。も
う、泣くのはやめて………」
 勇の止まらない涙を楓は指先でぬぐった。
 一瞬、顔をしかめる。
 おそらく、激痛が走ったのだろう。彼女の肩は厳重なギ
ブスで固定されていて、少しでも動けば、常人には耐えら
れないほどの痛みがあるはずだ。
 だが、楓はすぐさま表情を元通りに戻して、勇のことを
いたわった。
 慈しみと包容力。
 楓の心には憎しみのかけらもない。
 いっそのこと、激しく憎んでくれれば勇の心は反対に安
らいでいたかも知れない。
 柳沢楓は憎まず、ひがまず、逃げず、何事もいつも正面
から受け止める少女であった。しなやかであるが、強靭 な
精神をもつ彼女は、周りからみれば、なんて馬鹿正直なん
だといわれるほど不器用な選手だった。
 だが、それゆえに今の彼女があるし、勇はそんな楓のこ
とが好きだったはずだ。
 『あの』プロテスト時もそうではなかったか?
 しだいに開かれてゆく勇の心と身体が、『あの』技を出
させたのではないか?
 一生に一度、出せるかどうかわからない程の最高威力を
もつ、ジャーマンスープレックスホールドを。
「楓先輩、立ってください!」
 もう何度目かの叫び声は、すっかりかすれてしまってい
て、勇の声はがらがらになりつつあった。
 勇の興奮は、いつも冷静なはずの怜の心さえも揺さぶっ
た。無駄だと判っていても、釣りこまれるように声が出て
いた。
 ふたりの心の叫びは、楓には届きはしないように見えた。

 本当にそうだったのだろうか?
 少なくとも楓の身体はその声に応えようともがいていた。
 長年培ってきた無意識の身体反応が、アウトカウントを
聞きながら動き出そうとしていた。
 しかし、その時点で楓に意識はない。
 プロレスの試合ではよくあることで、強烈な技を食らっ
た後から記憶が一部、欠落することがある。
 選手は意識がなくとも、身体だけが闘い続ける。
 もうそれはプロレスラーの身体にしみついた宿命みたい
なものだった。
「………10………11………12………」
 いけない。
 リングに戻らないと。
 それは楓の無意識の声である。
 20カウントでリングアウト負けになることは、理屈で
はなく、彼女の身体が知っていることだった。それが、ど
うゆら彼女の無意識の回路のスイッチを入れたようだ。
「………18………19」
 その間にもカウントは進む。
 レフリーの視線が楓の様子を探っている。
 ゆっくりと、エプロンに手をかけた楓は何度も滑った挙
げ句に、ようやくサードロープを左手でつかんだ。
 その左手をぐいと、引き寄せると同時に半身になった右
半身をタイミングよくリングの中へと滑り込ませた。
 練習の時から、もう何千回も繰り返した動作なので楓の
身体は苦もなくやってのけた。
「……大丈夫か、柳沢……」
 レフリーが楓の目を覗き込む。
 半ば条件反射のように一瞬だけ、楓の瞳に生気が宿った。
 両手は当然のようにファイティングホーズを形作ってい
る。
 最後には駄目押しとばかりに顔に微笑まで浮かべていた。
 もはや、レフリーに試合を止める権利はない。
 渋々、再開のかけ声が告げられた。
「……ファィット!!」
 もう一度、試合が動きはじめる。
 プレッシャーをかけながら、美奈子はチャンスとばかり
に間合いを詰めようとする。
 楓〜実は無意識の身体反応でしかないそれ〜は、そうは
させないと言わんばかりに間合いを外し、美奈子を中心に
円を描くように右に左にと細かいステップを刻んでいる。
 が。
 美奈子が不用意に間合いを詰めようとした瞬間、楓は逆
に踏み込んで、身体ごと美奈子の腰を目がけてタックルを
していった。
 絶妙のタイミングで、ほとんど神業に等しいそれは、流
石の美奈子でもかわし切れはしなかった。
 ふたりはもつれ合うように、マットにころがった。
 気づいた時には、美奈子の利き腕の右手が脇固めに決め
られていた。
 美奈子はすぐさまロープに左手を掛けた。
 たまらず、ロープブレイク。
 なんと瀕死のはずの楓の方が攻めていた。
 楓があとでこの場面を見たらきっとあきれ返るだろうこ
とは想像に堅くなかった。
 なぜなら、記憶に全くないからだ。
 意識なぞ、かけらも残ってないからだ。
 それでも試合は続く。
 今度は美奈子も不用意に間合いに入ってこない。
 遠くからローキック、ミドルキックを重ねて、楓の動き
をコントロールしようとしていた。
 しだいにコーナーへと追い詰められてゆく楓は為す術も
なく、後退を重ねるしかなかった。
 まったく接近できない楓の身体に美奈子の蹴りが食い込
んでゆく。
 最初はローキック、時折、ミドルキックを交えつつ、楓
はまるでサンドバックのように蹴られ続けていく。
 面白いようにヒットする。
 コーナーポストを背にした楓に、もはや逃げるところは
なかった。
 両手、両足でガードしているが、ときたま、脇腹に叩き
込まれた蹴りが楓の呼吸を止める。
 そして、運命の時が来た。
 左側のミドルに叩き込まれた蹴りが一度、止まったかと
思うと急激な上昇カーブを描いて、そのまま楓の首を刈り
取るかのように降り下ろされたのだ。
 いわゆる、カカト落としと呼ばれる技であった。
 楓の右首に降り下ろされたそれは楓の残された戦闘力を
根こそぎ奪い去ろうとしていた。
 スローモーションのように倒れてゆく楓。
 マットに前のめりに倒れ込んで、二、三度バウンドする。
 レフリーが慌てて、ふたりの間に割って入って、致命の
一撃から楓を守った。
 それ以上の攻撃を受ければ、ただでさえ弱っている楓の
身体は再起不能のダメージを受けてしまう。あまりに危険
だった。もはやレフリーストップは確実だった。
 10カウントを聞くまでもない。
 美奈子はきびすを返すと、自分のコーナーへと帰ってい
った。
 今度、振り向いた時は、美奈子の勝利が告げられる時だ。
 会場の観客さえそう思いかけていた時。
「あなた。何しているのよ」
 落ち着いた、迫力のある声がどこからか聞こえてきた。
 美奈子は思わず振り返る。
 そこには信じられない光景が展開されていた。
 柳沢楓が腕組みをして、仁王立ちしていた。
 どうやら、声の主は彼女らしかった。
 何を寝ぼけたことを言ってるのか、この女は。
 美奈子の卒直な感想である。
 瀕死の身体でお前は死にかけていたんじゃないのか?
 美奈子はそう言いたかったはずだ。
 しかし、確かに楓の目には意志の力が戻ってきていた。
 何が幸いするか分からない。
 意識を断ち切ろうとしたカカト落としが、皮肉にも最良
の気付け薬になってしまったようだ。
 ただの幸運だろうが、何ともしぶとい女である。
「さあ、続きを始めましょう」
 楓がにやり、と笑う。
「仕方ないわね」
 美奈子もぐいっ、と前に踏み出す。
 こちらも負けてはいない。
 とても新人とは思えない迫力が楓を威圧した。
「ウォーミングアップはこれで終りよ」
 楓は再び、不敵な言葉を放った。
 そして、試合は振り出しに戻った。




 

 

 



   <つづく>


                 1999.4.4








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