少女格闘伝説2

 



『帰ってきた少女5』








「ウォーミングアップは終わりよ」
 などとはったりをかました楓は、意外と冷静に自分の身
体の状態を把握していた。
 なぜか知らぬが、右首のつけ根に激痛が走り、右手が痺
(しび)れて動かないこと。側頭部にも痛みがあり、どう
やらそれが原因で『意識』がしばらくの間、失われていた
らしいこと。ハイキックくらった、かすかな記憶が、楓の
脳裏に残っていたことが幸いしたようだ。
 それでも、完全にクリアーな意識に戻るまでは、かなり
の時間が必要であることは明白だった。
 失われた記憶は仕方ないとして、右半身の痺れの回復の
ための時間を稼がなければならなくなった。
 ま、それもこの相手が許してくれればの話である。
 美奈子はそれほど甘い選手ではないはずだ。
 獲物の弱っている度合いを慎重に窺(うかが)う猫科の
肉食獣よろしく楓に迫りつつあった。おそらく、少しでも
弱みを見せれば、かさにかかって攻めてくるはずだ。
 ここからが楓の腕の見せどころであった。
 美奈子は左手をかざすようにして、楓に右手を組んでこ
いと、無言の圧力をかけてきた。
 最終的には両手を組んで、いわゆる力くらべをやろうと
いうのだ。
 通常、試合のオープニングによく見られる光景だが、そ
の行為が楓のダメージをはかる絶好の機会であることは、
はっきりしていた。
 しかも、流れ的にも、試合が振り出しに戻ったのだから
なんら不自然なところがない、というのが実に巧妙でした
たかな美奈子の策略だった。
 とても新人とは思えない試合運びである。
 この試合のペースを支配しているのは、依然として美奈
子であった。

「………よかった。楓先輩、目が覚めたみたいですね」
 怜は安堵(あんど)のため息をもらした。
 相変わらず、楓の苦境は見えていないようだ。
「……ったく、あなたの脳天気さといったら、筋金入り
ねえ」
「どうしてですかあ?」
 怜はすっとんきょうな調子で尋ねてきた。
 どうも今の楓の状況が何も判ってないようだ。
 勇はあきれて、ものも言えない様子で枕元に置いてある
ミネラル・ウォーターのボトルに手を伸ばした。
「あんたも飲みなさい」
 と言って三本あるうちの一本を怜に差し出した。
 いつも夜中に目がさめたら飲むようにしているものだ。
 寝汗をかいた体の水分補給は体調管理には不可欠な要素
である。大体、人間が体調を崩すのは、水分の不足による
ものが意外と多いのだ。
 風邪で熱がある時などの点滴や注射の中身のほとんどが、
単なるぶどう糖溶液であることはよく知られている例であ
る。直接、血管に体液に近い溶液を注入すれば、身体はた
ちまちのうちに回復する。
 消化、吸収するよりも即効性があるのは当然であろう。
「あのねえ、怜。楓先輩は意識が回復したと言っても、か
なりのダメージが残ってるのよ。ああやって、力くらべを
したら、一発でどこが悪いかばれちゃうじゃない」
 怜はまるで狐につままれたような顔で勇をじっと見つめ
返した。
「……そ、そうだったんですか?美奈子さんもなかなか
やりますねえ」
 と、のんきなことを言った。
「こら!あなたねえ、美奈子と同期でしょう?入門から1
年であんなに差をつけられてどうするのよ!」
「ううっ」
 怜はすでに涙目になりかかっていた。
 勇も少し言いすぎたかもしれぬと思い、慰(なぐさ)め
の言葉をかけた。
「ごめん、言い過ぎたわ」
「いいんです。……事実ですから」
 涙をパジャマの袖で拭(ふ)きながら、怜は悔しそうに
そう言った。
 勇はそっと怜の頭を撫(な)でてやった。
 それは無理もなかったかもしれない。
 アマレス界でも将来を嘱望(しょくぼう)された人材で、
体格的にも恵まれた美奈子は、新人ながらも将来のエース
として、エンジェル・プロレスでも別格の扱いを受けてい
た。
 人気、実力とも伴っていたため、周囲も会社もそれを当
然のように思っていたが、同期の怜たちにとっては屈辱以
外のなにものでもなかったはずだ。
 かたや、同じ14才で怜はプロテストにようやく合格し
たばかりで、体格にも恵まれず、付き人として先輩や会社
のあらゆる雑用〜売店、リングの組み立てと解体など〜を
こなしながら、前座の試合や練習をこなさなければならな
かった。それらが全て免除されている美奈子に対して悔し
がるなという方が酷であったろう。
 ともかく、実力さえあれば、今のエンジェル・プロレス
では上に行けるということがはっきりしていることがせめ
てもの救いと言えた。
 かつては先輩との力関係という複雑な要素があり、今よ
りもっと複雑だったことを考えれば、この世界もかなり新
人がのびのびとやっていける環境が整ったのかもしれない。
「怜、良く見ておくのよ。プロレスというのは、力と技、
実力も大事だけど、もっと大事なものがあるわ。楓先輩の
試合を見ればなんとなく判るはずよ」
 怜の肩を抱きながら、勇は力強く言い切った。
 こくり、と頷く怜。
 その言葉は、勇自身へ向けられた問いかけでもあった。

 ゆっくりと右手を頭上に差し出してから、楓は美奈子の
誘いに乗ることにして、組みに行こうとしていた。
 力くらべを拒否したところで、いつかは楓が痛めた場所
はばれてしまうのだ。いっそのこと、組む仕草をしながら、
慎重に時間をかけていけば回復のための時間が稼げそうで
ある。
 そう思った。
 いかにも組むのに細心の注意を払っているように見せか
けて何度も組みかけては、手を放す。
 これを繰り返してみる。
 結構、こういう細かい演出は客席に受けがよく、振り出
しに戻った試合を徐々に盛り上げていくために効果的であ
った。
 楓が組みに行って手を放す度に、
「ほう」
 という観客のため息が所々から聞こえてきた。
 調子に乗った楓は、両手を高々と上げて手拍子を始めた。
 観客たちもそれには思わず乗せられて、手拍子の輪が広
がっいった。
「いいぞ、柳沢!!」
 という掛け声まで飛ぶ始末だ。おそらく、昔の楓のファ
ンであろう。
 楓も投げキッスを返す。
 リングの上は楓の一人舞台のような状況になってきた。
 楓は観客を味方に引き込みつつあった。
 リングの中で、ふたりは左回りに回転しながら間合いを
はかっていた。
 回りながら、美奈子は嫌そうな表情をちらりと見せた。
 傾きかけたペースを楓に戻されて、まんまと回復のため
の時間稼ぎまでされている。美奈子の心の中では楓に対す
る憎悪が渦巻いているだろう。
 が、それも一瞬で、次の瞬間、満面の笑顔を浮かべると、
楓と同様に手を鳴らし始めた。
 ふたりの手拍子が観客たちを魅了し、会場がひとつにな
ろうとしていた。
 会場の雰囲気を味方につけることは、レスラーにとって
思った以上に大切なことであった。
 相手を圧倒するだけでなく、観客の応援から『目に見え
ないエネルギー』のようなものをもらうことができる。そ
れがレスラーに普段以上の力を出させて、名勝負を生む原
動力となるのだ。
 楓は観客と対戦相手、そして、自分自身の力を120パ
ーセント引き出した舞台で戦いたかった。
 右手の感触を確かめながら、回復具合を確認する。
 拳をぐっと握りしめた。
「そろそろ行かせてもらうわよ」
 楓は、美奈子にだけ聞こえる声でそっと語りかけた。
 美奈子は不敵な笑みを無言で返してきた。





   <つづく>


   1999.4.10









@ 戻る

@ 6へ


このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ