少女格闘伝説2

 



『帰ってきた少女7』









 マットに叩き付けられる度に、楓の意識は何度も消えかか
る。
 しだいに、自分の身体の力が奪い去られるのが判る。
 今、フォールされたら、跳ね返せないかもしれないと思う。
 そして、”あの時”と同じ感覚が訪れた。
 神沢勇と闘った時と同じ感覚。
 勇との記憶が、今の状況と重なり合う。
 不思議な疑似体験。
 デシャ・ビュのような感覚。
 記憶がフラッシュバックし、時間が遅延していく。
 人の身体が生命の危機にさらされた時、よく見られる現象
である。
 交通事故などで跳ね飛ばされた、バイクの搭乗者がスロー
モーションのようにはっきりと細部まで事故の様子を記憶し
ていることは珍しいことではない。
 むしろ、よく聞く話だ。
 原理的には非常時に際して、普段は使われない右脳の機能
が飛躍的に向上するという説明の仕方がある。右脳は、直感
的、映像的で瞬間的な状況判断を得意とし、非常に高速な情
報の処理が可能である。
 脳の情報処理速度が上がると、相対的に外界の現象の速度
は遅くなる。
 すなわち、時間の遅延である。
 楓は特に右脳の機能が高い特殊な体質を有していた。
 高速で、瞬間的な状況判断はプロレスなどにもってこいの
能力である。
 楓の強さの秘密のひとつでもある。
 それに加え、無尽蔵の耐久力もある。
 しかし、”あの時”、天才的プロレスラー神沢勇の技を楓
は受け切れなかった。
 立ち上がれなかった。
 楓が初めて味あう屈辱だった。
 いや、違う。
 正確にはそれは自分自身の不甲斐なさに対する”怒り”と
その後にやってきた何とも言えぬ”解放感”の入り混じった
とても複雑な感情であったはずだ。
 だから、約束した。
 もう一度リングに帰ってくると、再びここで闘おうと誓っ
て、再起に賭けた。
 二年にも及ぶ苦しいリハビリと一年間の更に壮絶なトレー
ニングの日々が甦る。
 苦しくて意識を失いそうになる度に勇の顔を思い出した。
 力一杯、闘っている時の何とも幸福そうな表情。
 そして、楓の身体を壊してしまった時に見せた、自分の技
や力を全て解放して闘える相手を失ってしまった悲しみと孤
独。
 強すぎることが、どれほどの孤独をあの子にもたらしたの
か、楓には想像もつかない。
 楓を引退に追い込んでしまった後の勇の無惨な姿は彼女で
さえ直視できなかった。
 可愛そうなのはあの子だ。
 誰かが、あの子の技を全て受けてやらないといけない。
 私がもう一度、あの子の技を受けてやらないといけない。
 そんな想いが楓を支え続けた。
 今は、秋月玲奈という友達もできた。
 でも、楓の復帰によって勇の心は完全に解放されるだろう。
 お姉さんも少し混ぜて欲しいわ。
 闘える相手がたくさんいた方が楽しいでしょう。
 勇との約束を果たすことが、いつしか楓自身を支えて、解放
してくれることになるだろう。
 限りない慈しみと共感が楓の内に生まれた。

 「………ワン………ツゥ………」
 マットを叩く音が聞こえる。 
 楓は反射的に全身を使って跳ねるように肩を浮かした。
 危なかった。
 もう少しで、スリーカウントが入るところだった。
 森谷美奈子の瞳は、信じられないものでも見たように一杯
に見開かれて、拳は怒りで震え始めていた。
 瀕死のはずの楓がカウントスリー寸前で返してきたからだ。
 楓に言わせると冗談ではないと言いたかった。
 これぐらいでやられる柳沢楓ではない。
 だが、美奈子は何故か、すぐに次の技を掛けることができ
なかった。すでに二十回以上もジャーマンを繰り出し、しか
もその前にジャイアントスイングを十回以上も回し、裏投げ
をまで使っている。
 もう、美奈子には威力のあるフィニッシュホールドはない。
 それに加えて、三十秒以上も動き続ければ、身体の中の酸
素が全て空になってしまっているのだ。
 動けるはずもない。
 意識がはっきりしてくると、楓の心はとても冷酷な戦闘マ
シーンのように相手を分析し始めた。
 意外とこの子、体力ないみたいね。
 というより、回復が遅すぎるわ。
 心の中で呟く。
 この言い方は少し意味がちがう。
 楓に比べてない、というだけだ。新人としては、普通のプ
ロレスラーとしても充分すぎる耐久力を持っている。
 そして、今のダメージなら、楓が受け損なわなければ全く
問題ないことがはっきりしてしまった。美奈子の今の技と力
では楓を倒すことはできない。
 さっきはただ、不意を突かれただけだ。
「どうしたの?もう技はないの?」
 楓はゆっくりと立ち上がる。
「ほら、投げてみなさい」
 圧倒され、震えながら美奈子が投げようとする。
「うぁっ!!」
 全く力の抜けた楓の身体を美奈子は必死に投げ続けた。
 死にもの狂いの表情で、楓を投げ抜いた美奈子はマット
にへたり込む。
 彼女にもう闘う力は残されていなかった。
 微笑みをたたえながら、楓がむくりと起き上がる。
「……技は一撃必殺じゃないと駄目よ」
 楓は優しい視線を美奈子に注いでいた。
 美奈子が叫ぶ。
「どうして、どうしてよぅ!!」
 美奈子の精神は楓に対する不信と疑惑で崩壊しかけていた。
 何故、倒れないのか?
 一体、この女の身体はどうなっているのか?
 想念も楓の次の技で粉々に砕けようとしていた。
 何気ない仕草で、美奈子の腰をホールドすると、楓は平凡
なサイドスープレックスの体勢に入った。
 角度も厳しくない、平凡な技である。
 一閃。
 技の瞬間がほとんどの人々には見えなかった。
 おそらく、会場にいたひとりの人間を除いて誰にも何が起
こったのさえ分からなかったはずだ。
 鈍い音がして、美奈子の身体は完全にのびていた。
 意識はもちろんない。
 その結果を見届けることもなく、楓は自分のコーナーへと
さっさと帰ってしまった。
 コーナーポストを背にして、両手でロープを掴んで、軽く
身体をもたれかけた。
 レフリーが慌てて駆け寄り、美奈子の頬を叩いていたが、
すぐにゴングを要請した。
 柳沢楓のノックアウト勝ちであった。
 結局、楓が使った技は最後のサイドスープレックスのみで
ある。
 楓は相手を受け潰して勝利を収めたことになる。
 前代未聞の闘い方だろう。
「お見事です」
 楓の背後から女の声が聞こえた。
 振り返るとそこにはセコンドの神沢恭子と秋月玲奈が仲良
く並んで楓の方を見上げていた。
「最後の技も素晴らしいけれど。あんなに完璧な”流神”を
みるのは私も初めてです。楓さんは一体、どこであの技を学
んだんですか?私、とても興味がありますわ」
 言葉は丁寧だが、秋月玲奈の言い方は有無を言わさぬ迫力
があった。
 開かれているように見えて、実は特別な資質がなければ修
得できない技の体系をもつ秋月流である。
 例えそれが基礎的な防御技であっても素人がたやすく使え
るものではなかった。玲奈の疑問ももっともだった。
「玲奈ちゃん、あの技は私が教えたものなの」
 躊躇する楓に代わって恭子が答えた。
「…………」
 玲奈はますます不思議そうな視線で今度は恭子を見つめ返
した。
「話せば長い話になるわ……」
 恭子が何かを言いかけた時、異変は起こった。
 楓たちとは反対側のコーナーから、数人のレスラーが凶器
を振りかざして乱入してきた。
「どうやら、真打ちの登場ねえ。楓、もう、それをはずして
もいいわよ。思いっきりやってきなさい」
「はい!」
 凄味のある柳沢楓が、今、ベールを脱ごうとしていた。
 



   

 

 

   <つづく>

   



                   1999.4.24











@ 戻る

@ 8へ


このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ