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▼ 第20回投稿作品 ▼





初夏の昼下がりに生温かい風がレモン色のカーテンをやさしく踊らせる。
少女はそれを見つめたまま、いや実質見るともなしに窓の外に顔を向けたままベッドから半身だけ起きていた。
窓枠の向こうの景色など長年の雨風にさらされた間に蔦が育ち、
煉瓦の壁を半ば支配された建物のそれこそ壁一面ばかりだった。
二ヶ月前だったか、少女は同じように壁づたいの蔦を末々まで眺めながら側立つ者に告げた
「あ…あそこに葉が、一枚だけ」
ビル風に吹かれせわしないその一葉を、その頼りない姿を見るにつけ少女は自身の命運を予見して聞かせた
「あの最後の葉が風に吹かれ散った時、わたしの命も終わるのね…きっとそうよ」
側立つものは看護婦で、病院の個室でもう半年(少女が入院してより)は少女の世話をしている。
少女は医師より治療の困難な病気を幾分か遠回し通達されているのだが、それでも面だって絶望に塞ぎこんだり不安に喚き散らす事が無く
当日までは只つつましやかに身を伏せていただけなのだ。その日までは


「ノリスケ君、どうだい具合は」
世間話でもするような声で一人の老人がその部屋へやってきた。
薄生地のスーツに皮張りの手提鞄を右脇に抱え、左手にはどこか青果店の袋と黄色いチューリップの花束を持っている。
見舞いに来室したのは確かだろう。しかし少女の名はノリスケにあらず
「あたしノリスケさんなんて知りません。人違いですよ…じゃなくて、部屋違い、です」
責めるでもなく穏やかな口調でゆっくりと老人に告げた。
老人は少し部屋を見回し、間違いには特にばつの悪そうな顔もみせず
「こりゃ…失礼。そうか、間違いだったか…はて」
言葉尻には少女に背中を向けて退出する処だったのだが
「まっておじさん!…少し、ここにいてくれませんか?」
その寸前を少女に呼び止められた。


「おじょうちゃん?いったいどうして見ず知らずのワシなんかを呼び止めるのかな?」
「わたし…ひとりっきりなんです。この部屋にずって閉じ込められたままでもう半年で、それでもう病気もほぼ治らないだろうって言われてます。不治の病だって」
そのときの少女の顔は己が内に蓄積された不安からなる激情を漏らすまいと必死に抑えて語る様に見えて、とても健気なものだった。
「友達もはじめの頃は見舞いにきてくれてたんだけど、そのうち学校の話なんて全然わからなくなって…色々な事を聞かせてくれたんだけど、
 わたしの事ずいぶん気を使ってくれてたんだろうけど、それがとっても辛くなって、なんか空気が違くなっちゃって…それから誰も来なくなったんです」
シーツに視線をおとしたままで一区切りの息をついた。
そのままだ。その時の少女は素直な感情を吐露した処で自分は何を今はじめて出会った老人に関係の無い事を赤裸々に語ってしまったのだろう、
今更だが『やっぱり忘れて下さい!今いったことは嘘なんです、気にしないで出てって下さい』と追い返したい気持ちにさえなったのだが
しかしおそらく、その嘘は見破られてしまうだろう事も予測済みで実際は何も言葉を続けられなくなってしまったのだ。
こんな事を突然他人に告げてしまうなんて、と思うと羞恥心より顔をシーツから上げられなくなってしまったのだ。
「構わないよ」
遠くの方で、そう聞こえた気がして少女は目を大きく開いた。
「それでもワシはノリスケ君の見舞いを済ませないといけないからその後になるけど、そのあとでもう一度おじゃまさせてもらうよ」


それから40分後、老人は約束どおりに再び少女の部屋を訪れた。
あらためて部屋を見回すと乳白色の壁にレモン色のカーテン、ベッドの脇に老人の身長より僅かに低い赤茶色の本棚に隙間無く文庫本が並べ詰められていた。
枕の反対側の壁にある扉はどうやらバス・トイレが併設された小部屋のものらしい。
少女が背中を預ける枕の後ろには棚段があって何も差されてない花瓶とCDプレイヤーに8枚のCDケース。
「『ノリスケさん』って、友達の方ですか?」
老人は右脇に鞄を抱え左手には3本の薔薇をピンク色の厚紙に包んで持っていた。それは病院玄関の脇にある売店まで下りて少女の為に買ったものだ。
「いいや、友達と云う程では無くて…知り合いだよ。息子のなんだけどね」
話しながら少女の側へ歩み寄ると3本の薔薇を今の今迄からっぽであった花瓶に差し入れてやった。
少女はその様を目で追ってから礼を言う
「わたしの分の花まで買って貰うなんて…ありがとうごさいます」
「やはり花瓶だからね。壷とかならまあ構わないけど、からっぽだと格好つかないしね」
「格好ですか…繕う必要なんて無いと思います。だってわたし、もう死ぬに決まってるんですから」
窓へ顔をそむける。カーテンが時折吹く柔らかな風にそよぎ、そのはためきから洩れる様に古びた煉瓦造りの壁が僅かだけ覗ける
「どうしてそんなに悲観しているんだい?しかも死ぬ時期まで見て取ったみたいに言うなんてとんでもない事だよ」
「あの壁を見て下さい」
そう言うも顔をまっすぐ窓へやったままだ。老人は窓側に立ってカーテンを引き開いてみせた。
見下ろすと細く人通りの無い路地を隔てて1メートル少々に、その壁面がある。蔦が老朽化の著しい箇所のヒビ割れよりおびただしく延びていて
その末節に近い一つに手のひら程の葉がある。そこに只一枚だけある。
「壁だけだねぇ。これじゃ外の景色なんて無いも一緒だよ」
「あの葉っぱです。あれが散ってしまった時にきっと、私の命も終わってしまうような…そんな気がするんです」
「ええ?」
「馬鹿な話をしているって、思われても構いません。でもわたしきっと判るんです。凄く強く、そんな気がするんですよ…」
少女の思い込みが頑として揺るぎ無いものである事を見て理解すると、老人は少し頭の中で作戦会議をしてみた。
こういった特別な状況で育った意識の強さは計り知れないものがあって
まして少女的な空想・妄想をまったく苦手としていた老人には的確な効果の望める説教や啓示の言葉が形を持って浮かばなかった。
そんな妄想はよくないと常識的に言っても改められる処は一つと無いのだろう、老人は取り敢えずの繋ぎ程度かもしれない事を自覚しつつ
「それじゃあ君はあの葉に祈り続ける必要があるね。きっと君が強く願えば、君自身強く生きられる筈だから」
敢えて同調する様に告げた。
「毎晩祈ってます。夜寝る前も毎晩必ず祈っています。もしも夜中に強い風が吹いて、あの葉っぱが吹き飛ばされてしまったら…
 もう朝になっても目覚める事がなくて、わたしを起こしに来た看護婦さんが動かないわたしを見てどうするだろうって…
 そんな事を考えてて、なかなか眠りにつけないんですよ!もう毎日毎晩がそんな調子で、とっても恐くて、わたしはシーツの中でちぢこまって震えながら
 何時の間にか眠っている、その時を待っているんですから」
まったく、まったくやりきれない気分を顔に出さないよう努めて老人は少女を優しくみつめていた。
全ての生が安らぎに包まれて然るべき眠りの戸口、その寸前までも少女には限りなく絶望に近い不安でしかないのだろうか。
果たして自分はこの娘の病、それも特に心の病の為に何かしてやれるのだろうか。
「きっと大丈夫だ…少なくとも信じるべきだよ。明日、また来てもいいかな?今度はケーキを持ってくるよ」
少女は窓から顔を外したものの老人の方は向いていない。その横顔にちらと光るものが見えた。一瞬だけ。
「ケーキなんていりません。なんにもいりません…でも来てください。わたし誰かと話したのが凄い久しぶりで、嬉しかったです」
「よかった。ワシでよけりゃ、毎日は…むずかしいかもしれんが、しょっちゅう御邪魔させて貰うよ。じゃあ、また明日ね」
「はい。また明日」


夕方の蜜柑色の空、伸びた影が主の数倍も遠くへ落ちる頃。
駅前通りの裏手にあって人通りがあまりない、まず病院関係者でなければ使わない道。
つまり都市設計としては失策の具現化、それでも病院機能の必要性から区画再開発に着手し辛い現状。
表の軒騒は聞こえ届くのに辺りは誰もいないその道を老人一人が歩いている。
右脇には昨日と同じ鞄を、左手に駅前通りのアーケード内にある不三屋のマロンケーキとチーズケーキを小さな紙箱に入れて

入口左脇にある受付窓口の中で3人の看護婦服の中年女性が三輪脚の椅子を向かい合わせて談話している。
老人がそこへ少女の部屋に面会することわりを告げると予想外の言葉が帰ってきた。
「失礼ですが、彼女との間柄は?」
「は?」
「現在は関係者でも事前の取り次ぎが無い場合はすべて面会謝絶とさせて戴いております。予約はありますか?」
「いや…友達、とでも申しましょうか(自分で言いながら不自然だと思った)。今日お見舞いに行く約束をしていたもので」
対応した看護婦は物腰こそ一見柔らかそうだが、顔は毅然と拒否的な緊張を含んだものだ。不審そうだ。
老人はまるで自分がここに居るのがひどく場違いな気分にさえなってしまう(『ノリスケ君』の存在を忘れたわけではないが)。
「…すみませんが事前に通達の無い方は彼女の部屋に通してはならない決まりなのです」
「そんな…いったい誰がそんな事を決めたのですか?」
「患者の父親がそうさせる様に頼んだと話には聞いていますが、詳しい話までは…ともかく今日は御引取願いますか?」
受付からの言葉を聞きながらも老人の脳裏には昨日の場面が展開していた。少女がベッドで半身を起こしている。
その時に聞いた話を(…でも以前は学校の友達がお見舞いに来ていてくれたって、そう言ってた筈だ)。
そこに引っかかりを感じた老人は都合のいい口実をすかさず切り出していた。
「じゃあそちらは構いません。それとは別に知人の所に行きますが宜しいですか?」
こちらは難無く通してもらえた。ちなみに少女の部屋とノリスケのそれとは番号が『273』『278』だった。



それより数分前、老人が受付ですげなく面会謝絶を言い渡される前に
少女の部屋から少し離れた廊下の角に大柄な三人の男が話をしていた。
全員とも身長が190前後だが一人はプロレスラーの様に筋肉の盛り上がった身体をしていて
一人はNBA選手の様に締まった痩身だ。あと一人は力士…と云うより只の肥満漢といった処か。
およそ病院の世話にかかりそうも無く見える三人が人気の無い廊下なのに、それでも人目を気にかけながらレスラー風の男が
「じゃ、いよいよ外しちまうんだな?」
バスケット選手風は
「もう大丈夫だってな、富岡」
どうやら肥満漢の名だ。彼は返事をせずに頷く。
「しかし、『病は気から』ってな…やたらと好都合じゃねぇか?あのおっさんにしてみりゃよ!」
レスラー風がシャツを張らせて肩を揺すりながら話すのをバスケット風が


この表記を続けるのは辛いので名前を。レスラー風は以後『扇』、バスケットメン風は以後『アズロ』にしよう。
当初は展開がくれば自然と名前を呼んでもらえる時まで自己紹介なぞするか、と思っていたが
その場面が少し先になっている事を思うと耐えられそうにない

つまりバスケット風である処のアズロがプロレスラー風である処の扇を睨みながら促した。
「声がうるさいぞ、誰かに聞かれたら失態だな」
どうでもよさそうにその二人を見ていた肥満漢である処の富岡は鼻をほじくっていた。
ぶひぃ、とキャプションを追加したくなるその鼻の穴であるが、富岡の五指からして芋虫みたいにぼってりとしているのだ、
こんな指で習慣的にいじくってたら、そりゃ鼻の穴も拡大するわな。
まるで全ての地上的な繊細さから対極にある様な富岡の風体だが、実は彼の『仕事』は催眠術の施しである。
(正確には違うらしいが性質的にたいした差異は無い)
アズロは冷静で利発そうな顔だちで、この三人を一見すると彼はリーダー格に見られそうだ。
「ともかく、やるとなればさっさと済ませてしまえばいい。俺が行ってくるから、お前たちは」
扇が不服そうな顔をそっぽに向けて
「わぁってるよ。そもそも誰も来やしねぇと思うがな」
富岡は依然と拡張工事の最中である。無言のままだ。
富岡の無言を了解とみなしてアズロは走り去っていった。そのアズロの姿が見えなくなるとほぼ同時、
廊下の反対側から老人が辺りを伺うように首を巡らせながら歩いて来た。残された二人が老人に気付く。
「お、そのまさかってヤツか?早速ジイさまがやってきたが、なんにしてもこは立入禁止区域になったぜ、たった今からよ」
扇はそうつぶやくと早足で老人の所へ向かった。しかしまさか、見ず知らずの老人が何故『あの少女』の部屋の扉をノックしてる!?
アズロが『仕事』を終えるまで、この廊下(勿論少女の部屋の前)を誰も通さないつもりでいたのに
追い返すより、怒鳴るより先にその見ず知らずがさっさと当の部屋に入ってしまったのだ。
扇と富岡には(この場にいないアズロにも)現在、少女の部屋に入る人間と云えば『彼女の父親』だけの筈だった。
この訪問者の出現に扇は一瞬、呆気に取られるがすぐさま足音を殺してドアの前までにじり寄った。富岡もそれに続いて扇の背後に立つ。
ノブの鍵穴から覗く事はできない、防音もしっかりしている…扇は軽く一呼吸すると、その巨躯からは想像に難い程の
弾丸みたいな素早い挙動で一気にドア蹴り開けた。そのまま室内から老人を打ち据えて引きずり出すつもりだったのだが
部屋に飛び込んだ一瞬で室内を見回しても少女がベッドの上にいるだけだった。
少女にとって扇は初対面だ。扇にしてみれば三度目になるがそんな事は関係無く
大きく驚きに見開かれた少女の瞳を追った

(俺を見ていない…後ろ!?)
実に扇が部屋に飛び込んでから、今この瞬間に背後を向くまで2秒未満だった。その僅かな時間を指して
老人は扇の岩の様な背中に言い捨ててのける
「おそい」
扇にはその拳が見えなかった


例えば遠距離射撃などで表現される様に、着弾から一拍遅れて炸裂音が届くみたいに
扇の意識は殴られた結果を認識するより先に視界が天井に向けられている事、次いで己が尻餅をついた姿勢になっている事、
そしてやっと、鼻腔より焼け付くように染み渡る感覚から自分は殴られたのだと理解した。
老人はまるで無表情に、その隣のベッドから半身を乗り出した少女は驚きに凍りついた様に鼻から赤い一筋のたれる扇を見ている。
「あの…あの……なんで、殴っちゃうんですか?この人血を出しちゃいましたよ」
存ぜぬ者ならではの普通的な言葉に老人は何事もなさそうに答えた
「こいつは殺気の塊みたいだったのでな。何が目的かは後に訪ねるとして、その気迫はワシ向けてのものだった。そうだな?」
扇は応えずはじめのうちは殴られた衝撃(どちらかと云えば精神面のもの)に気の抜けた表情であったが
やがて歯茎を剥き出しに鬼もかくや、といった憎悪の顔で老人を睨み返した。
「なんだ…なんなんだ!この部屋は部外者の入っていい部屋じゃ無いんだ!誰だお前…何者だ!?」
「ワシは彼女の友人として、この部屋にいるつもりだ。昨日にちょっとした勘違いで出会った仲ではあるが、
 まぁ時間の浅さは問題ではないな。ちゃんと彼女の了解も得てこにいるのだから…むしろ君こそ誰かね?君の知り合いじゃあ無いよね?」
「私…知りません。初めてです」
睨む顔から血が床に落ちるのを心配に思える半面、大切な客である老人に敵意の眼差しを向けるこの大男を少女は複雑そうに見ている。
扇の顔がこちらに向けられると一瞬身体をびくりと震わせ、側立つ老人のなるべく背後に隠れる様にその身をよじる。
開かれたままだった扉から扇とは別質の巨体を誇る(果たして本人が誇るか否か)富岡が他人事を眺める通りすがりの顔をして立っていた。
「はじめてじゃないよ…君が覚えていないだけで実際、はじめてじゃないよ」
過剰な皮脂質に覆われた顎下の首回りや、頬の肉圧に押しすぼめられて小さくなっているかの様な、もそもそとした口が
推測されるであろう年齢より若い印象を富岡に与えているのだが、それは幼いと云うものではなく社会的に適応迎合しなさそうな
一般成人的な自覚の欠如した内向的な顔つきであって誰にも(恐らく扇やアズロからも)好意的に見られる事が無かった。
少女が無遠慮な嫌悪の瞳を向けても富岡はむしろ下卑た笑いを返してやる。
「まあでもどうでもいいのかな。だって君は今日、それも今すぐにでも死んでしまうから」
「な…」
「そうなるさ!確かこうだったな…『最後の一葉が散切れた時、私は死んでしまうだろう』」
富岡の舌足らずに聞こえる叫びを合図に窓が外側から開かれる。部屋に居る全員がその方を向くと
煉瓦の壁面にへばりついたアズロが(右手に掴んだロープの熊手部分を屋上の縁に引っかけて降りているらしい)
皮肉そうな顔をこちらに、左手で少女が心の支えにしていた当の一葉を今まさにむしり掴み
その場の誰が一呼吸するより早く剥してしまった。
「!」
老人の声ならぬ驚愕だが、その瞬間、少女は老人の背中越しに窓を伺うかたちになっていた為に
彼女一人の視界だけが決定的瞬間を老人の背中によって塞がれていたのだ。果たしてその奇跡を認識していたのだろうか
アズロの非情に対する老人の反応速度は殆ど反射といっていいぐらいの速さで窓際に跳躍して
揺れるカーテンを一瞬で引いて『その事実』を視界から遮断させると
そのままカーテン越しに空気も打ち抜かんばかりの突きをアズロの顔の正中に打ち込み「うあああああ!!
と落下する声をも即座に窓を閉じて遮断してみせた。
一連の動作を終えて振り返ると


扇が少女をシーツから引きずり出し、白くか細い首を血管の筋も荒々しい右手で掴んでいた。
それは料理人が素材として用いた鶏の首を切り落とす寸前を想起させる。
実際にやらせたら確かに扇は少女の首を捻り切ってしまえそうにも見えるが、そうする気は無いらしい。
窓際の老人と扉側の人質、老人が手を伸ばすより先に少女に危害が加えられる方が早い事を理解すれば迂闊に動けなくなり、空気は緊張する。
「アズロを落としやがった…無事かな。もしかすると分け前が増えて困っちまう」
笑う扇は突然の事態を愉しんでいる様だった。
「しかし…だ、ジイさん。あんたがいるのは邪魔だよ。これからこのコには見てもらわないといけないモノがあってね」
老人は静かに睨み続けている。扇は少女に見せようとしている、背後のカーテンを開いて。
くだらない。そんな事で人は死ぬものか…だったら別に自分がどいてやってもいいではないか。そして粗野で愚かな男達を笑ってしまえばいいではないか。
そうすれば少女も、あんな根も葉も無い迷信を己に課する事の無意味を笑えるだろう。そうだ

それなのに老人は動けない。そう考える頭の裏側の、それも奥底の方で何か靄が漂っている。拭えない不安が煙の様に頭の中で充満しつある。
本能が『退いてはならない』と叫ぶ。それだけが、しかし強烈な確信を与えて老人を押し止める理由だった。
逆に考えてみる。どうしてこの無礼者がわざわざ少女の迷信に沿って、最後の希望を奪うのかを。
普通なら誰だって窮屈な少女の戯言だと放っておく筈なのに。
「それを見てもらわないと仕事にならないんだよ。でなきゃ俺が折角仕込んだ暗示が作動しないからね」
壁にもたれる格好で傍観していた富岡が不意に答をよこす。細目なのはどうやら鼻で笑っている顔らしい。
「暗示だと…おまえさん、この娘に何をした」
「暗示は暗示だよ。彼女が最後の一葉の消失を確認してくれりゃあいい。『絶望で死ぬ』っていう決まりだからね」
「馬鹿な事を!そもそも、どうして彼女にそんな酷い仕打ちをする?」
瞬間を見計らった窓の開く音、そしてカーテンは強烈な風で左右に開かれて見せた。アズロは何事も無かったみたいにそこにいる。
「それを全部話すと長くなるがな」
いや、彼は扇と揃えられたかの様に鼻から赤い一筋を、窓枠の手摺に水滴を落としている。痛々しいものだ。
「彼女、先日亡くなった資産家の孫娘なんだ。遺言によると遺産の8割が彼女に相続されたってな…他の家族や回りの奴らがそれを、黙って承諾する訳がない」
手の甲でぬぐい、それでも絶えない筋を嘗めながらアズロは部屋に降りた。ちょうど老人を中心に三人が囲むかたちとなる。
少女は流れる話を半ば呆然自失の感覚で聞いていた。自分が殺されようとしている。
手足の長い鼻血をたらした男(アズロ)がそこから退けば…遂に『その時』がくる。悪夢が現実となる。
心臓は押し潰されそうな程に縮み、破裂しそうな程に膨らみ、激しい動悸が呼吸を乱している。
(実際は扇に喉首を掴まれ、圧迫されている事のほうが影響している)
死の実感。抗えない事を身体が、心が理解している。視線をアズロから外せない。
目を閉じて叫んでしまう処だった。その寸前、アズロの方を向いていた老人が振り返り、少女と目が合った。
その一瞬が少女に何を与えたのだろう。言葉は無かったが確かに頷いてみせた。

「あ            !!」
それは老人の気勢と共に打ち出された拳!アズロはまたしても窓の外へ飛んだ。というより落とされた。
老人は窓を背にして扇に叫ぶ
「ワシはここを一歩も退かん!だからおじょうちゃん、君が死ぬ事は絶対に、無い!」
「でも…でも!葉っぱはどうなの!?ねぇ、もし葉っぱが無くなってたら、わたし」
「駄目じゃない!!…もし実際に無くなっていたとしても君がそれを認識しなければ、こうして生きていられる。本当は『最後の一葉』なんて自殺願望でしかないんだ!
 君が生きようと思うなら、君の命を、意志を何にも誰にも託してはいけない!窓の外なんて見るなッ!!」


「ジイさん、どいてくれないことにゃ話が進まないんだ!」
その大きな右手一つで少女の首を握ったまま老人に突き出す様に持ち上げてみせる扇。
「その手に…意味はあるのか?『暗示』とやらで直接自分達が手を汚す事無くこの娘を殺す。きっと他殺の形式はとれないからだろう
 …首に跡が残るのは、おまえにとってまずい事なんじゃないのか?」
「冴えてるね。まったくこの駆け引きは形式的なハッタリでしかない。それが通じないなら、どのみちアンタは始末する必要がある」
「ワシは部外者、生死を問われる身分では無いものな」
「…おお!!」
返事を気合いとして跳躍する扇。少女は床に放り出される。最初に入室してきた時と同様に巨体を感じさせない、短距離走者のクラウチング・スタートを想起する飛び込み。
それを老人は半身だけ翻してかわす。同時その扇の跳躍の着地寸前だった右足に爪先をたてて足払いをしてやる。
これで勢いの余った、と云うより留まらぬ扇の背中も開かれた窓へ押し込み退場願うつもりだったのだが
扇こそ敢えて避けられるのを承知で突跳してみせたのだ。足払いで着地姿勢の崩れるその時、彼の右手は老人の左手首を捕まえていた。
技は計り知れない相手だと関心しつつも、それでも力は到底負ける相手では無い。となれば組み付いて動きを封じるのが正解だと思った。
老人は手首を扇の突進の速度に彼の体重を加えた勢いで引きずりおろされる。結果、窓から完全に姿を離す事になる。そして少女に景色を見せてやれば終りだ。

扇はその勝利の確信を、彼が最も思い寄らぬ形で裏切られたのだ。老人が、その老人こそ左手首にさがる扇に耐えて立ち崩れる事の無い。
扇は窓際の床面に女が膝を崩してしなをつくって座る様な形で老人を見上げた…今、自分が手首を掴んでいるこいつは誰だ?と思った。
「ワシが退いたぐらいで事が済むと思うなよ、あの娘を見てみるがいい!」
暗示は耐え難い誘惑を備えていたのに対し、少女は震えながらも必死に目をつむり首を精一杯そらしている。
そこへ富岡が巨体と形容するには同じ場にいる扇に対して余りに失礼でなかろうかと疑念甚だしい巨体を
これまたその巨体からはとても想像つかぬ素早さで少女の腕を背中で捻りあげて背後に位置した。
扇の素早さと富岡のそれでは意味性に絶対の差がある。鍛え抜かれた肉体の爆発力が見せるそれに対して
「キミ…目を開けないか、キミ。このまま目を開けないのならオレの社会倫理的に許容ならざる少女趣味を存分に発揮する事になる!むしろ、むしろするべきか!」
極まった愛好家が時折発現させる狂気的なものか。富岡の妙に荒々しい息遣いを首筋にうけて少女は恐怖に悪寒を伴う。
老人は手首を掴む扇を振り解き窓枠に手をかけて身を外へ乗り出すと、懐より一枚の模造の葉と接着剤を取り出して瞬時に煉瓦の壁面に張り付けた。
「おじょうちゃん目を開けるんだ!あの葉は絶対に守ってみせる」
富岡がいやらしい笑顔で老人を見ながら
「戯言を。アズロが今さっきむしったばかりだというのに……うそ!
素っ頓狂な富岡の声に気をつられて少女は目を開くと、窓の向こうに確かに一葉があった。振り向いた扇の顔も動揺している。
実にこれは前日の初訪問の帰りにわざわざ老人はアズロと同じように向かいの建物の屋上から降りて壁面の葉の写真を何枚も撮り、
その写真を携えて造形師に頼んで精巧に再現してもらった偽の葉だった。その時は誰も近くで観察する者もいなかったので後日まで知られずにいた話である。
それを克明に見れたのではないが葉があると云う確かな事実こそが少女に気力をもたせた。真実ではないがそれが必要だった。
「葉っぱが!ああ!葉っぱ!」
両手の平を笑顔に広がる口にあてて歓喜する少女の脇を扇に勝るとも劣らぬ一足で老人が跳び抜けする。
そのまま少女の背後にいた富岡の巨躯の、敢えて腹に勢い任せの拳を沈めると、老人の手首までが肉腹に埋まるほどだ。
「う、う〜っ」
気分の悪そうな唸りを漏らすようにしながら富岡が崩れおちるのを見て、少女は小走りに老人の側へ寄った。
その笑顔が脅えると同時に老人の首は野太い腕に締められる。典型的チョークの、その扇の常人離れした筋力からくる締め付けは完全に老人の呼吸を止めてしまう。
「お……おっ…!」
そのまま扇は上体を背中側に反らせて老人を首吊りにしてしまうと先程までの呆気はどこへやら
「捕まえた…ジイさん、すぐに楽にしてやるさ!」

その時、それまで腹の芯に響く鈍痛からうずくまっていた富岡が顔だけ上げて
「最後の一葉じゃあなくてもいいんだよおじいさん!俺はいいことを思い付いたんだからな!」
返事の出来る筈も無い老人に告げると、扇の横に困惑していた少女に向かって
「俺の目を見るんだ…そうだ…最後の一つが失われると、君は死んでしまう…それは」
果たして富岡の発声にどのような魔力があろうか、少女の目は富岡を向いているようで焦点が無かった。力も抜けている。
老人はそれを新たな死の暗示と知り、少女自身がそれに抗えない事を瞬時に見取ると両手で扇の肘を下方から打ち上げた。
(肘がある微妙な角度で衝撃を受けるとしびれる様な痛みを感じないかい?アレだ)
電流を思わせる痛みに扇の腕は緩み、その一瞬が生んだ首と腕の隙間に手刀みたいに指を揃えた両手を差し込み
「つあっ!」
気合いと共に窒息から逃れる。そして富岡の暗示を
「それはこの爺の毛だ!この頭頂部の一本が抜けた時に絶望を知り、君はもう生きられなくなるだろう!」
富岡の言葉が言い切られるより大分に先に少女の目を塞ぎ、腕を回して両耳も塞いでやった。暗示が完全に伝わるのは防いだと、そう信じる他無かった。
だが安堵の間も与えず扇は再び老人の後ろをとっていた。その気配から逃れようとするより早く扇の右腕か老人の首回りを捕らえ、そして
「ひょお!富岡…オマエもたまにはイイ冗談を言うじゃないか!しかも今の俺達にはすばらしく実用的なヤツだ!嬉しくて笑っちまう」
(今の今まで描写されなかった老人の御尊顔だが、そもそも説明するだけ無駄だと思う筆者の怠慢からに他ならない。頭に毛が一本の有名人を想像)
そして左手の人指し指と親指がその一本の毛の根元をつまみ、それを五指全てでむしり掴むと一気に
「あ゛−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−っっ!!」
三度目の気合いは一度目と二度目よりも強く大きく、その場に居合わせた老人以外の全員が鼓膜を心配させられる程の叫びだった。
空気が震えて肌をびりびりと撃たれた気さえして扇は目を見開く。
「…う?」
どんなに、どんなにこの拳を持ち上げようとしても動かない。老人の頭髪はまるで頭部と一体化しているかの様に…
と云う形容が足りない、まるで丁寧に溶接された鉄材みたいに固く、びくともしない。
「そんな、馬鹿な」
すると老人は掴まれた頭髪に頓着の無いみたいに無造作に背中の扇に首を向ける。離さない扇の左手がそのまま引かれて捻り返される。
「馬鹿な、とは…?鍛え抜かれた精神が肉体の領域を超える事を知らぬか?おまえも武人のはしくれだろうに」
「でもコレ肉体じゃ無」
待たず聞かずに老人は扇の横顔を張った。爆竹の破裂に似た音が高く響く。それでも扇は左手を離さなかった。
『法に抵触せす証拠を残さず』少女を亡き者にするには暗示の力が必要であり、今ここで老人から離されたら勝機が完全に失せるかもしれないと扇は思っているのだ。
しかしどんなに引かれても毛は抜けない。何故か富岡は昔話の一説『おじいさんとおばあさんがうんとこしょ、どっこいしょ』を思い出していた。(おおきなかぶ)
それどころではない、老人はほとんど根性だけでつかまっていた扇を一撃で打ち退けると彼の手を外し、なんと己でその最後の一本に手をかけてみせた。
「『暗示』だと?くだらん、くだらん事を!!この娘には失敗しただろうよ!今、それをおまえに思い知らせてくれる!!」
如何なる激情の高まりがそうさせたのか、老人は言葉も切れるや同時に、実にあっさりと最後の一本を自らの手で抜いてやった。
富岡は緊張に歯噛みして『その瞬間』を待ち、老人は堂々とした確信に少女を振り返る。果たして

少女の身体から力が抜け、床にぺたんと尻餅をつく。放心して顔が、やがてわななき震え、両頬を手で抑えて床におちる自身の影を見た。
一瞬の中にある永遠のような時間を、その緊張を途切れさせたら命は終わるのかと恐れ篭る。鼓動が激しい。目を閉じて逃れられるものなら、と思う



「おじょうちゃん」
頭上から声が呼ぶ。暖かさを感じて(確かに声に温度があると思えた)少女は寝坊者が慌てる様に顔を跳ね上げた。
老人の優しい顔がすぐそばにある。両膝に手をあてて少女をじっと見下ろしている。誘うような笑顔で聞いた
「君は平気だね…暗示なんて、平気だろう」
「……うん…うん」
不意に溢れ出る涙を止められない。視界が滲み、自分が泣いているのはこの上無い喜びによってだと知ると尚はっきりと泣いた。
わあわあと顔をくしゃくしゃに歪めてしまい、拭い拭いも余計に顔がひどくなってしまうではないか、それすら嬉しいみたく泣き止まなかった。
富岡は明らかな動揺を顔に出して動けずにいたが、二人の光景を見る頃には気を取り直して部屋から逃げ出した。
富岡に一拍遅れて扇も素早く部屋を飛び出すのを横目にすると老人は少女の両肩に手を添えて優しく、力強く聞かせる
「あいつらが二度と来ないようにしないとな。それから君が安心できるようにしないとな…任せてくれ。今日はこれでお別れだけど、明日も来るよ」
「ありがとう…ほんと、ほんとうにありがとう…」
すがりつく少女からやんわりと腕を引き離すと即座に身を翻した。
「じゃ、元気で!」


もう暗くなった狭い裏道を走る二人の影。よく見ると二人ではなく、一人の背中に背負われた姿が力無く揺れているのが見える。
その三人が息を切らせながら走る。人気無い道を選んできた筈だ。何処に帰る場所があったのだろう?
やがて表通りに出る処を仁王立ちした一人の影に塞がれてしまうのに。街明かりを背に顔を闇にした完全の禿頭。
「…」

翌日に昼のニュースが三人の遺体を告げる。


「ただいま」
場面はまだ当日の夜にあって、老人は何も無かった様に帰宅した。坊主頭の少年と散髪執行者を咎めたくなるようなおかっぱ頭の少女がやかましく玄関まで迎えに走ってくる。
「おかえりなさい父さ…あれ……うああああっ!?」
「おかえりなさぁい。どうしたのお兄ちゃ………きゃあああああ!!」
あからさまに驚愕する兄妹にこそ老人は驚かされる。
「なんだ、どうした二人とも?」
「どうっ、て…父さんこそいったいどうしちゃったのさ、その頭!」
「そうよ!その頭…無いじゃない!なにも無いじゃない。遂に尽きてしまったのね」
「二人とも…いいか、これは父さんな、自分で決めた事なんだ…別に変な事じゃないんだぞ」
「ちょ、ちょっと待って!とにかく今みんなに知らせてくるから…ああ!なんてこと!」
坊主頭の少年が来た時より忙しく走ってゆくのを妹も過剰に寸法違いなスカートの裾より雲を連想させる下着を露出させながら走り去っていった。
それから家族一同に迎えられた老人は皆から同様に驚きをもって言われた。中でも老人に応えたのは飼い猫『声優:???』が老人を見るやいなや
「ニャー!!」二階に逃れてしまった事である。
「おい、『声優:???』、どうしたんだ、『声優:???』!」
「きっとお父さんだって判らなかったのよ」
「あいつはワシの事を只の髪の毛一本で認識しとったのか!?畜生め!」
どうあれその時の老人は、まるで異邦人どころか異星人の様に好奇的に扱われてしまったために、すぐに不愉快になって居間から抜け出した。
そこに集まっていた家族は当の老人が場から抜けた後もしばらくは実の無い家族会議で今後の老人への対応についてのらくらと話し続けていた。
廊下から手洗い場へ、自分の顔を、頭を見るために鏡に向かう途中に鈴の音がして『声優:???』が曲がり角から顔をのぞかせている。
「『声優:???』や、おいで…『声優:???』、ホレ」
たまに気まぐれからそうする仕草で老人は猫に手を差し伸べた。『声優:???』は少し伺ってからもこちらに駆けて来たので老人は嬉しかった。
ガリリ!「ニャー!!」
「ぉああ!?『声優:???』!!」
痛烈な裏切りを与えた猫は老人を通り越してそのままどこかへ消えてしまった。
手の平に赤い筋が三本、その赤が痛みとともに拡がり、すぐに手の平より廊下に滴を落とす。
老人は無言で手を見つめたまま動かなかった。痛みだけがじわじわと意識に訴える。やおら駆け出すと手洗い場の鏡台に両手をついて己を見た。
「…ワシには…アレが無ければいかんのか!?」
鏡の中の男が歪んで見える。血にまみれた手をそれと構わず頭に打ちつける。ビチャと鳴って、赤は老人の顔に進行下る
「ワシがワシであるために!?ワシ、ワシが!ワシが!!」



何度ワシが、と繰り返したのだろう。いつしか老人は自分の背中を見ながらもそれを続けていた。
洗面台の下に繁華街の道中に泥酔した背広姿のように崩れる身体こそ自分だったと気付いた時、全ては闇の底に飲まれてゆくばかりだった。
あの時確かに少女を救った事、その代償に暗示を己に。
もはや老人には富岡の言葉を思い出せないだろう、闇の中へ



※本文中に挿入されてなかった事ですが、少女の重病とやらもその実は富岡の暗示にかかった医師の言葉であって、少女は身体こそ弱いものの健康でした。
この真実を物語中に展開させるには扇・富岡・アズロのうち誰かにわざわざ説明じみた発言をさせる必要があり、
或いは文中の適当な場所に説明書きを入れるべきだったのですが、内容の構想中より如何にスムーズに当該の指摘を入れるか悩みながら
(その途中に「ひとまず置いといて」的思考により作成を進める)その結果、気付いたらその箇所を入れる事を忘れていたと云う結果でした。
少女が病気で危ういなら「そもそもに三人が働く必要無いじゃん」と思った貴方、
つまりは作者の失態を笑うのが正しい







ねり

http://lodger.tripod.co.jp/

2000.6.29
 


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