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▼ 第21回投稿作品 ▼



  縮む男




 少年はある朝目覚めると、自分の体が縮んだように思
った。
 何とも言えず、妙な感覚に襲われた。全身を目の細か
い網で、そう、ストッキングのようなもので全身を覆わ
れたようであった。
 閉塞感とでも表現すればいいのだろうか。
 6畳のタタミの間に、こたつが1つ、背の低い机が1つ、
本棚が1つ、こたつの傍に万年床が1つ。そして、ほんの
少し気のせいかもしれないが縮んだ自分が1つ。
 本当に気のせいだろうか?
 本棚の上にある大きなベルの付いた目覚まし時計は、
7時の騒音をがなりたてる1分前だった。
 (縮んだのかな、僕。)
 朝からそんな非現実的な事さえ、考えもした。
 奇妙な閉塞感から逃れたいが為の、ささやかな抵抗感
からか、少年は窓を開けて朝のやけに冷え切った空気を、
虚弱に広がりきらない肺に精一杯吸い込む為に、身を乗
り出して外を覗いてみた。
 それで何かが変わるわけでもない事は、少年にも重々
承知の上であった。
 その2階の部屋からは、やたらと晴れ上がった空に、こ
の上なく絵になる構図をとって、頂に雪を被った山が見
えた。
 朝の冷気に咽びかえる事なかった事が、少し不思議に
思われた。
 少年はその山の名前を思い出せなかった。この場所に
も、もうずいぶんと長く住んでいるような気もした。
 いつからこの場所に存在し続けているのか、しばらく
考えた。ひょろりひょろりと朝の冷え切った風が、見下
すように耳をかすめた。
 (まあ、いいか。)
 ふと少年の部屋の隣の窓が開いて、若い女が顔を出し
た。年の頃にして24〜30前といったところか。その若い
女には、清々しい朝の光景には不釣り合いな、疲れ果て
た表情がぼんやりと浮かんでは消えていた。
 少年と目が合った。
 (あ、挨拶したほうがいいのかな)
 少年に一言の隙も与える事なく、にこりと作り笑顔を
残して、何も言わずに、まるで流れるような仕草で、そ
の女は窓をゆっくりと閉めた。
 閉めた窓の縁から、枯れ果てしおれた茶色の花の死骸
をのせた鉢植えが落ちた。鈍い音をたてて砕けたが、飛
び散りはしなかった。
 少年は黙って見ていた。目覚めた時にも増して、また
少し体が縮んだ様な気がした。窓を閉めて時計に目をや
ると、8時2分前だった。
 その目覚まし時計は少し、ふやけていた。



 昼間、そう2時少し前だったろうか。少年は寂れた商店
街を歩いていた。店のシャッターはどれも薄汚れ赤茶け、
うっすら錆びを浮かべていた。そこには一つの文化が崩
壊しかけている時に発する、いやに暖かみのない、漠然
とした五感に直に訴える荒廃感が漂っていた。首を軋ま
せて見上げると、またその有機的な匂いしない商店街に
似つかわしい、どんよりとした曇り空が広がり、3羽の
ツルがゆっくりと、苦しそうに、もがくように泳いでい
た。
 その商店街の切れ目から反対側の商店街に伸びている
横断歩道で、少年は信号待ちにひっかかった。横断歩道
の向こう側はぼんやり霞んではっきりとは見えてこない
が、きっと素敵な商店街に違いないと、少年は切望に近
い絶望を心のどこかに抱いていた。
 肌寒く、通る車の1台もないその2車線の道路を睨んだ
まま、30分程立ち尽くしていた。
 50分経ったが、まだ信号は青に変わる気配はなく、車
の通らない道に埃が舞っていた。世界を統べる定理では
あるが、時間は煙のようにはかなく舞いながらも、眼前
でたゆたう。
 少年はすぐ傍の露店で、大銀杏に髪を結ったおやじか
ら、黒ずんだ甘栗を買って食べた。いくら剥いても剥い
ても、栗の薄皮は完全に剥離される事はなく、あまつさ
え少年の爪の間に深く入り込んで、出て行こうとはしな
かった。
 利用されることもなくただ横たわり、次第に砂利と埃
に覆い隠され埋もれていくだけで、あまり意味を成さな
いように思えるその横断歩道でも、待っている人は少年
だけではなかった。
 待っている人は皆、無表情な白い仮面をつけた紳士淑
女だった。かちりとした燕尾服と、華やかなドレスを身
にまとい、白い仮面をつけて立っていた。
 少年は黙って見ていた。
 それから20分もすると、向こう側から大きなフロシキ
を背負ったOLらしき女が、辺りをキョロキョロと見渡し、
よいしょとふろしきを背負い直し、
おもむろに車の通らない赤信号を渡り始めた。こちら側
の白い仮面が全て、その女を無表情にゆっくりと目で追
った。少年は直感した。
 (危ないって)
 と、言うかどうか少年は、迷っていた。
 不意にそのOLは、大きなトラックにはねられた。不意
に、思い出したかのように、そのトラックは現われた。
実に狙い澄ましたかのようにその空間を横断していった。
 ごぶっ、という鈍い音がした。ブレーキの音は聞こえ
ず、トラックはそのまま行き過ぎた。通る車は後にも先
にもそれ1台だけだろうと少年は思った。 女のフロシキ
は、数百本もの青いクシを路面に撒き散らし、トラック
のあおり風を受けて空に優雅に舞った。OLの腕は、あら
ぬ方向にぐにゃりと曲がり、その白いスーツはどす黒い
血に染まった。
「仮面をつけていないから、ああなんだ。」
 少年の隣の紳士が誰に告げるでもなくぼそりと言った。
 その場にいた白い仮面の紳士淑女は、全員が同時に首
を動かさずにうなずいていた。
 少年は黙ってその男を見ていた。
 男と目が合ったが、その男はすぐにまた路面の、赤黒
く染まったOLを見た。少年も再び横断歩道に目をやった。
 OLの血だらけの目が少年だけを見ていた。
 信号が青に変わり、白い仮面の人々は横断歩道を渡り
始めた。血だらけのOLを素通りし、青いクシを踏んで、
人々は向こう側にぼんやりと消えていった。
 OLは横たわったまま、ただ黙ったまま、まるで壊れた
人形の様にじっと血だらけの目で少年を見ていた。
 少年は横断歩道を渡るのをやめ、再び寂れた商店街へ
戻り始めた。背後で車の通る気配も、人の通る気配もな
かった。ただそこで、朽ち果てるまで横たわり続ける血
だらけの女がいるだけだった。
 (まあ、いいか。)
 少年の右腕が急にひどく痛んだ。ふと見ると、干から
びてカサカサの煤けたミイラの様になっていた。
 (まあ、いいか。)
 左手の腕時計を見ると4時少し前だった。その腕時計の
盤面の文字はいびつに蛇行し、針は力無く横たわり、ガ
ラス面は少しただれていた。澱んだ空を、はねられたOL
のフロシキをくわえたツルが、たゆたうように泳いでい
た。
 そして少年はまた少し縮んだ。



 ある夜、少年は女と向かい合っていた。満天の星空の
下、狭く、木造平屋立ての家々の古びた板塀に挟まれた
砂利道で、少年は女と向かい合っていた。ひどくなまぬ
るい夜だった。女はただずっと、黙って少年を見ている
だけだった。
 (僕は変だろ。)
 少年も黙っていた。
 (変な奴だよ。)
 女は外路灯の薄明りの中、黙っていた。

(もう僕には愛想が尽きたろ。しかも最近縮むんだよ。)
 砂利道は埃っぽかった。星明りを頼りに歩いていた金
魚売りが、じろじろ見ながらゆっくりと通り過ぎた。
 (まあ、いいか。)
 少年は地面の荒い砂利を数えるようにして女に背を向
けた。もう二度とこの女とは会えないだろうと考えなが
ら、満天の星空の下、家路に向かった。
 女の泣く声がかすかに聞こえた。少年も泣きたかった
が、戸惑いながら黙って歩いた。
 (ま、まあ、いいか。)
 家に帰ると、少年の左腕は化膿して少しばかり腐臭を
発し、じくじくと湿り気を帯びていた。目覚まし時計は
腐り果てて、本棚の上からぐずぐずと畳の上に糸を引い
て、滴り落ちていた。
 (よかったんだろうか。)
 少し考えて、少年はすぐさま寝た。万年床も少し、じ
くじくしていた。



 少年は道に迷っていた。
 もともと行き先がなかったと言えばそのような気もす
るが、何処かに行かなければならなかったと言えばその
ような気もした。そもそも、何の用があって家を出たの
か。家を出る必要があったのか。
 (ま、いいか。)
 そこは辺りが薄暗かった。全くの暗闇という訳ではな
かったが、5m先まで見通しがよいかといえば、決してそ
うとは言えなかった。せいぜい視界が効いて2〜3m。後戻
りをしようにも、いったい何処から来たのかがはっきり
しないため、戻るに戻れない状態になっていた。道幅と
いえば、人が三人並んで歩くには少し狭い程度であった。
 しきりと全身を包む閉塞感に、少年は黙ってただ沈黙
していた。道に迷ってしまった事自体、あまり認めたく
はなかった。少し回り道でもしてみる程度の気持ちでい
たかったし、そう願っていた。
 少年はただひたすら歩いた。下を向いても前を向いて
も大差なく、ただ漠然と歩いていた。
 不意にぼんやりと何かが視界に入ってきた。ランドセ
ルを背負った男の子であった。男の子はしきりと連絡帳
を凝視していた。
 少年は素通りしようと思った。
 無言のまま男の子の側を通り過ぎようとした瞬間、男
の子が顔を挙げた。その男の子の目はかっと見開かれ、
少年に何かを訴える様な黄色に澱んでいた。
 少年は男の子への視線をすぐに逸らし、歩き続けよう
とした。
 「おにいちゃん」
 男の子が言った。
 少年は立ち止まらなかった。
 「おにいちゃん、どうしよう。」
 少年はそれでも立ち止まらなかった。一度立ち止まら
なかった手前、もう立ち止まれなかった。男の子が何を
見ていたのか。何を言おうとしていたのか。気にはなっ
たが、立ち止まりはしなかった。
 「ぼく、どうしよう・・・」
 背後からなおも男の子の声だけが少年を追いかけてき
た。
 少年の歩みが速くなった。
 「ぼく、明日持って行かなきゃいけないんだれど、無
いんだ・・・」
 少年がいくら歩みを速くしても、男の子の声は一向に
小さくはならない。
 「ないんだ・・・。なくしちゃったんだよ・・・。」
 少年はその声の如何ともし難い重圧に、耐えきれなく
なりつつあった。
 (何でいつまでも声が真後ろから聞こえるんだ。)
 「おにいちゃん、持ってない?」
 少年は立ち止まらなかった。
 「おにいちゃん、ねぇ、持ってない?」
 少年は。ぎゅっと目をつむった。目をつむっても辺り
の景色に大差はない。
 「ねぇ、持ってない?」
 歩いても歩いても、男の子の声は常に真後ろから聞こ
える。
 「ねぇ、持って行かなきゃならないんだ・・・」
 少年は振り向いた。
 そこにはさっきの男の子が、すぐ目の前に立っていた。
 小さな右手でぎゅうっと、胸の真ん中を押さえていた。
 男の子の薄汚れた白いシャツが、あたかも男の子の握
り拳の中に吸い込まれていく様に皺になっていた。
 (何をなくしたんだ、この子)
 男の子は悲しそうに胸を握りしめたまま、黄色い目に
涙を浮かべて泣いていた。
 「どうしよう。なくなっちゃった・・・。もう、なく
なっちゃった・・・」
 少年はきびすを返し、男の子に背を向けた。
 「ねぇ、おにいちゃん、持ってない?」
 少年は歩き始めた。なおも男の子の声は、背後にはっ
きりと響く。
 「なくてもいいかな。ねぇ、持って行かなくてもいい
かなぁ、おにいちゃん・・・。」
 その言葉が何を意味しているのか、少年にはもう分か
っていた。自分には無いことも分かっていた。果たして
自分は、持って行ったのか。いやそれ以前に、誰が持っ
て来いと言ったのか。
 持っていた事だけは確信を持ていた。絶対に持ってい
た。
 自分はいったい、何時無くしたのか。何処で無くした
のか。どのようにして無くしたのか。そもそも何故無く
したのか。
 無くても事は足りたのか。
 (無くてもいいと思うよ・・・)
 背後から聞こえてきた、男の子のけたたましいまでの
笑い声が、少年の耳を引き裂いた。



 ある夜、少年は山にナワトビをしに行った。周囲を丈
の高い草が覆い、その後ろに立ちはだかるように木立の
うっそうと茂り、あたかも守られているかのような獣道
をしばらく行くと、満月に照らされた野原に出た。少年
は二重飛びを始めた。
 しばらくすると、木陰で少女があやとりをしているの
に気付いた。美しい少女だった。
「よく見えないんじゃない。」
 と言って、少年は腰に吊るしていた懐中電灯で照らし
てやった。
「ありがとう。」
少女はそう言って微笑んだ。
 しばらくすると風が出て、あやとりのヒモが飛んで、
木にひっかかった。少年はすぐに取ってやった。
「ありがとう。」
 少女は微笑んで、そう言った。
「どういたしまして。」
 少年は微笑んで、そう言った。
 しばらくすると、少女はもう遅いから帰ると言って林
の中に消えていった。少年は歌を唄いながら家路につい
た。目覚まし時計は夜中の3時を指していた。
 その日、少年は縮まなかった。



 来る日も来る日も、少年は夜毎に山へ行き、少女と月
明りと懐中電灯の下で、あやとりをした。かすかに触れ
合う指と指の感触が、少年の体を洗い流していった。少
女は美しかった。少年は自分を醜いと思った。
 この瞬間が永遠に続けばいいと、この瞬間を切り取っ
てセロファンに包んでしまいたいと、少年は心から切望
した。そういったじりじりする様な心の叫びを、一度ぐ
らい叶えてくれてもいいのではないかと、嘆願した。
 少女はある夜、遂に少年からあやとりを取り損ねた。
 少女は微笑んで言った。
「私の負けね。」
 少年は微笑んで言った。
「僕の勝ちだ。」
 二人とも黙ったまま、見つめ合っていた。少年は、恐
らくこの少女は二度とこの場所には来ないだろうと思っ
た。じっとみつめていた。
 少女が言った。
「私、あなたが好きよ。」
 激しい動揺と甘美な激情の入り交じった渦が、油絵の
ように渾然と混ざり合い、少年の内側を引き裂きながら
駆けめぐっていった。少年も同じ気持ちだった。永遠す
ら誓えるという確信すら持てる程であった。
 黙っていた。
 (僕は縮む男なんだよ。)
 少女の白いスカートが夜風に揺れた。
「私は好きよ。あなたは私の事好き?」
 少年は少女が、たまらなく好きだった。抑制の効かな
い原子炉のように、魂が融解していくのがはっきりと感
じ取られた。
 (僕は醜いから。)
 少女はゆっくりと、少年に背を向け始めていた。
「汽車が来たから一緒に行こうよ。」
 少女の前に、大きな汽車がシュウシュウ音をたてて止
まっていた。少年は喉をひきちぎりたい程、叫びたかっ
たが、黙っていた。少女は悲しそうな瞳で少年を振り返
った。
「一緒に行こ。」
 少女の声は震えていた。
 うつむいて地面を凝視し続けるばかりの少年を見なが
ら、少女は汽車に乗り込み始めていた。
 少女の歩みはゆっくりとではあるが、決して止まろう
とはしない。全てが少年に委ねられているのは、明白な
事実であった。全てが自分の魂の決定によって動き出す
ことも分かっていた。少年は自分の心臓がギリギリとね
じれていくのをはっきりと感じた。
 少年の前を汽車がゆっくりと走り始めたが、少年は黙
ってうつむいたままであった。汽車は徐々にスピードを
増し、やがて呪縛を解かれたかの様に、地面からゆっく
りと離れようとしていた。
 まだ、間に合った。
 だが少年は、うつむいたままだった。 やがて満天の
星空に吸い込まれて行く汽車から、少女は窓から身を乗
り出していつまでも手を振っていた。
 少女は泣いていた。
 かすかな声が、少年の耳元をくすぐった。
「さようなら。」

 急に、うつむいた少年の足元に大きな穴ががばりと開
き、少年はその穴に呑み込まれた。
 どんどんと加速しながら、どこまでも落ちて行った。
 不意に、意気地なしの夜鷹が一羽、何処からともなく
にじり寄ってきた。
「なあ少年。これでいいんだろ。」
 その意気地なしの夜鷹は、にちゃりといやらしい笑み
を浮かべた。
 (よくないよ・・・・)
 少年のつぶやきを聞きつけてか、後から後から群がる
ように、落ちていく少年に、意気地なしの夜鷹が数十羽
集まって来た。
 少年はその、意気地なしの夜鷹達についばまれながら、
縮みながら、どんどんどんどん、果てしなく永遠に地の
底に落ちて行った。
              終





    PAPA

    2000.7.2
 


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