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▼ 第24回投稿作品 ▼




「逃げる男」
                      PAPA



 既に感覚は麻痺していた.本来であれば足を突っ込ん
でいるこたつには,灯は入っているのであろう.だが,
何も感じない.果たしてこの部屋は暖かいのか? うち
の明かりは,こんなにも薄暗かっただろうか.そういえ
ば年末にも,大掃除はしなかったな.
 部屋が煙草臭いな.煙草を吸う本人が,臭がるのもお
かしなもんだ.あぁ,毛穴が塞がれてしまった.少し息
苦しい.このビニール袋を頭から被ったような感覚には,
懐かしささえ感じてしまう.少し息苦しい.
 感覚鈍麻
 なおかつ,感情も鈍麻していた.今現在の自分の置か
れた状況を,悲しいとも恐ろしいとも感じはしない.い
かんともし難い閉塞感が,全身を覆っていく.どうでも
いい.本当にどうでもいい.何が起こっても,たとえ今,
火だるまになっても,慌てふためくことはない.絶対に
ない.むしろ歓迎すらする.
 感情鈍麻
 恐らくは,これでいいのだろう.何処にも理解不能で
理不尽な状況など無いのであろう.もしこの部屋を斜め
45度上から映し出しているカメラがあるならば,みんな
納得して画面を見ていることだろう.
 もう,出口は一つしかない.
 迎合するしかない.
 逃げ道はない.
 奴は自分で,自分が望んだ奴なのだから.
 青年はアパートの部屋の,玄関へと腰を上げた.





 魂に安らぎを与えてくれるのは何か.そんな事など,
今まで微塵も考えたこともなかった.最近ではもっぱら
のテーマで,当然議論は結論を迎えず,ただ宙ぶらりん
で終わるのが常であった.ごもっとも,ごもっとも.自
嘲,自嘲.
 
 青年は黙々と星を数えていた.青年はこの,巨大な暗
幕に散りばめられた星々を眺めていると,自分が妙に安
心する事に最近気が付き始めた.
 可能な限り頭上を見上げて,暗幕の夜空以外の人工物
が視野に入ってこないようなロケーションを選んだ.そ
うすることによって,自分がこの暗幕にすっぽりと包ま
れているような錯覚に陥った.それはどこかの妖しい雑
誌の広告に載っているような,妙な唱い文句にも似てい
た.確かに妖しい.
 宇宙と一体になる
 青年は自分のアパートの屋根に登った.無論二階建て
築20年以上経過しているアパートの,青年の部屋は二階
にある.窓のベランダから半身乗りだし,力任せに屋根
の端を掴み,腕力の許す限りに懸垂し,這いあがった.
腕がひきつけを起こしそうになった,が気にはしなかっ
た.考えたくなかった.
 人生もこうありたいね,と自嘲した.
 屋根の定位置に腰を落ち着かせ,ぼんやりとポケット
から出した,潰れて歪んでしまったタバコ「バークレィ」
に火を付け,風のない夜空に紫煙をくゆらせた.気持ち
よさそうに,ゆっくりと輪を描いて,暗幕の一部に吸収
されていった.
 タバコは付け根の方で少し裂けており,すかすかと空
気が抜け吸い心地がすこぶる悪かった.
 人生はこうなんだよな偽善者,と自嘲した.

 青年は,四捨五入すれば三十にもなろうかという自分
の年齢に対して,疑問を感じていた.やがて消えゆくだ
けの存在であることも,1分1秒刻々と死に近づいている
避けがたい現実も十分に心ゆくまで納得していた.
 止めどなく流れていく時間の中で,自分の存在が危ぶ
まれていた.
 何処にも理由がなかった.

 自分の存在の理由が.
 生活するに過不足のない,いや,程良い満足感と程良
い不満足感の間を行き来するだけ稼いだ金をどうするの
か.切り崩していく時間を何で代償するのか.切り崩し
た時間で手にした金で何を代償するのか.
 1分1秒,寿命に,不慮の死に,病死に,ともかく死に
向かいじりじりと進む自分に,何をしてやろう.この愛
おしいまでに無益な自分に.
 やがて青年は屋根から降り,週末の第一日目を終える
べく,自分の部屋へと戻っていった.






 青年は,山の,しかも道路工事用の土砂の切り出しを
行っている山の砂利道にいた.昼であろうが,何となく
嫌な感じに湿り,曇っていた.その道はダンプに踏みに
じられた趾が轍になり,妙に歩き辛かった.右手を切り
立つ岩の壁,左手を奈落の谷に挟まれて,道幅5mの工事
用道路を小走りに走っていた.
 随分と埃っぽく,眼がしばしばした.埃のついた手で
砂が入らないように眼を擦ったが,やっぱり眼に砂が入っ
て真っ赤に充血した.
 「ちきしょう」
 汗が砂を絡めて,襟元から侵入してくる.不快な物ほ
ど,拒み難い.
 これこそ人生,と自嘲した.
 青年はあせっていた.
 如何ともし難い,あせり.
 後ろから敵が追ってくるのが,はっきり分かる.
 遂に追いつかれてしまった.遂にばれてしまった.嘘
をつき通せると思っていたのに.ごかまし切れると思っ
ていたのに.こんな事は誰にも分かりはしないと思って
いたのに.いや,そもそも自分に非はあるのか?
 「ちきしょう」
 眼に汗が侵入してきて,妙にしみる.何故自分の分泌
物なのに,自分の刺激物となるのか.眼が一層充血して
いった.
 けっ,と唾を吐いた.自分の靴にかかった.
 どんどんと,敵が迫っている.はっきりと分かる.が,
数が分からない.それが青年にとって,最大の恐怖であっ
た.不特定多数の敵.状況が把握しきれない不安.自分
はどういう状況なのか.
 もう,小走りではだめだ.走れるか?
 全力で走り始めた.砂利に足をすくわれ,よろけては
前につんのめった.こんなに全力疾走できないほどの年
になっていたのか.絶望はなかったが,孤独があった.
 青年の呼吸が,ひゅうひゅう縮み始めた.気管支が絞
り挙げられるようだ.
 誰だ、俺の気管支を握り締めているのは
 呼吸を吸う事はできても,吐くことができなかった.
気管支喘息によく似ていた.
 ひゅっ,ひゅっ.
 妙な音と共に,左足に棘でも刺さったような不快感が
疾った.
 ひゅっ,ひゅっ,ひゅっ.
 たて続けに,背中やふくらはぎにも同様に,棘が刺さっ
た.
 それは,正に棘であった.
 何処からともなく,棘が飛んできた.決して大きくは
ない.たかだか,割り箸をさらに半分に裂いた程度のも
のだった.死にはしないが,死にそうに痛い.激しく痛
い.足は引きずるまではいかないものの,以前にも増し
て走り辛い.
 「ちきしょう,ちきしょう,ききしゅうぅ・・・」
 叫ぼうにも息が続かない.声すら届かない.
 誰に?
 この期に及んで,青年は自嘲していた.
 「くひょう,叩きのれしてやる,絶対負けへねぇえ・・・ 」
 息も絶え絶えの絶叫が悲壮感をまとっていた.だが次々
と飛来する棘をかわすものもない.青年は棘を刺され続
けた.
 不意に,眼前に砂利が迫ってきた.ぐじゃり,と口の
中に砂利が入ってきた.血の味もする.
 遂に足が縺れてしまった.
 倒れ込んだ瞬間に,どっと足の筋肉が膨張するのが自
覚できた.もう騙せない.この肉体に力は残っていない.
もう走れない.
 その時,青年の右手に何かが触れた.その何かが何な
のか,青年には分かっていた.それでなければならなかっ
た.その状況で,それが必要で,それで十分だった.
 それで救われると確信した.
 「復讐だ」
 充血した眼は,より一層充血していった.獣的な眼光
は,本来の人間に備わった物.自己保存を命令するDNA
の叱咤.
 口の中の砂利を噛みしめた.微妙に歯が欠けた.ぼろ
雑巾がマリオネットのように立ち上がった.
 右手には明らかに,小型の青龍刀の重みがあった.ぎ
らつく大きな刃の反射する妖しげな陽光が,痛いほど眩
しく感じとられた.
 「やってやる」
 にちゃりと笑った顔は,歪んでいた.これでなければ
いけなかった.この右手にしている青龍刀でなければい
けなかった.一振りで状況を一変できる,主人公に必須
のアイテムだった.
 「来いよ.来るなら来い.」
 ずるり,と立ち上がった.
 「もう逃げねぇ・・・」
 不意に,手から青龍刀の重みが消えた.
 こうなる事も分かっていた.所詮結末はこんなものだ
という事も分かっていた.
 人生は,こうで,なくっちゃ,な
 青年は自嘲していた.
 青年が手にしていたのは,幼い頃,家事の手伝いでよ
く手にしていたものだった.青龍刀なんて英雄の持つ武
器はそもそも青年には不釣り合いだったのかもしれない.
それは高望みだったのか.
 両肩から,すぅっ,と力が抜けていった.
 「そういえば最近,見ないな,こういうの・・・」
 両腕をだらりと力無く垂れ,澱んだ天をゆっくりと仰
ぐ青年の眼から,きれいな澄んだ涙が流れていった.
 青年は全身に棘を一斉に浴びた.この瞬間を待ってい
たかのように,この無力を全身で実感する瞬間を待って
いたかのように,次々に飛来し,またそれを全身で避け
ることなく青年は受けとめる形となった.
 青年の手には懐かしい,優美な曲線を描く「布団叩き」
の棒が収まっていた.
 青年は笑えなかった.





 こんなものが夢以外の何物でもないことぐらい,青年
にも分かり切っていた.分かってはいたものの,随分と
寝覚めが悪かった.ぐっしょりと不快な寝汗に濡れたパ
ジャマが,認めざるを得ないリアリティを物語っていた
のが気にはなった.
 その日青年は,日曜日であるが故の長閑な昼下がりを
堪能するはずであった.そこには灯を入れたばかりのこ
たつがあり,差し込んだ足先には未だ昨夜の冷ややかさ
が残ってはいるものの,徐々に今日の麗らかさに変化を
遂げているのが肌で感じられた.
 テレビからは,お昼の国民番組の一週間分の総集編が
始まろうとしていたし,さっき差し込んだ湯沸かしポッ
トからも,徐々に湯気が勢いを増しながら天井を目指し
始めていた.
 何のことはない.このままいつものように,買い置き
の食パンでもかじれば,何の変哲もない日曜日が始まる.
 「バークレィ」にジッポーで火を灯した.相変わらず,
何年経っても煙が眼にしみる事の多い煙草だ.
 ポットの湯が沸き,コーヒーにするか紅茶にするか,
ややも考えた.
 ごづこつ,と鈍いノックがあった.
 しばらくの沈黙.
 帰れ、ばかもの
 どうせ新聞の勧誘であろう,と青年は考えた.
 ごつごつ,と再びノックがあった.ぼろアパート故に
チャイムがなくて良かったのか悪かったのか.いつもの
事ながら,次第に強迫めいてくる.
 出て来いよ,いるんだろ
 いねぇよ
 ごつごつごつごつごつごつごつごつ.
 異様に執ようなまでに,ノックに鬼気が迫ってきた.
 「ちっ」
 無愛想に立ち上がり,玄関へと向かった.向こうの出
方次第では,不意にどなり散らすことも念頭に置いてい
た.ここはひとつ最初の印象付けで全ての方向を自分に
優位に向けてしまおうと考えていた.
 少し冷たいドアノブを握って,わざと無愛想に勢い良
く,ぐいっと押し開けると,そこには男が立っていた.

 ファースト・インプレッションで,青年は負けを感じ
取った.
 大体に於いて,こういった人間関係やネゴシエーショ
ンは,ファースト・インプレッションで大半の勝負は着
いてしまっている.最初に相手に対して,威圧感を持て
たかどうか,相手より頭一つ上から見下せるか,相手に
「これはちょっと,厄介だな」と感じさせられるかどう
か.生物学的にどちらが弱でどちらが強かを認識させら
れたかどうか.刻み込まれた直感に,人間は得てして逆
らえない.弱肉強食,強者の支配.文明の中に於いても
世界を統べる物はそれであった.
 負けだ.青年は直感した.
 その男は髭面であった.
 身長は175程度か.煤けたよれよれのグレーの裾長の
コートを羽織り,両手はポケットに無造作に突っ込まれ
ている.両肩は妙に怒り肩で張りつめていた.何だかど
こかのアクション映画の悪役のような風体.しかも映画
なら,間違いなくこいつはボスだ.最後の最後まで主人
公を苦しめるタイプの奴だ.そういえばいつか見たアク
ション映画の主人公を俗悪にしたような感じでもあった.
 「何.」
 敢えて無愛想に,何だお前は,程度に勝負に出てみた.
もしかしたら現状をひっくり返せるかも知れないとわず
かに青年は思った.内心たまったものではなく,青年の
全身の筋肉に嫌に微弱な電気がぴりぴりと駆けめぐり始
めているのが分かった.何とかひっくり返せないものか.
 「新聞?」
 こいつは絶対に新聞の拡張員なんかじゃない やばい,
負けるな,もうひとがんばりだ 取りあえず無難にドア
を閉めることが先決だ
 にちゃり
 と,その男が声も出さずに下品に笑った.煙草のヤニ
で薄黄色になった前歯がいやらしく,印象的であった.
そして決定的であった.
 「いや・・・」
 間髪入れてはいけない
 「じゃ、何.」
 苛立たしげに吐き捨ててみたが,それはもう既に青年
のコントロールの効く範疇の行動ではなく,全身の震え
の一環としてのものだった.青年の声には恐怖が見え隠
れしている.圧倒的であった.全くもって圧倒的な威圧
感.この髭面の澱んだ瞳から,眼をそらしてはならない
と青年は直感した.
 「迎えに来た」
 「阿呆か.」
 それだけで精一杯であった.ようやく吐いた台詞が「
阿呆か.」.限界であった.急いでドアを閉じようとし
た.足でも挟んでくるかとも考えたが,拍子抜けにもす
んなりとドアは勢い余って,不必要に大きな音を立てて
閉まった.
 ドアに付いたスリガラスの小さな窓に,当然まだ,髭
面の影が映っている.髭面はまだドア一枚の向こう側に,
寸分違わぬ姿勢で立ち尽くしている.
 「次はお前の番だ.」
 吐き捨てられた.
 青年が理解する間もなく,不意に影は立ち去っていっ
た.





 何とも不愉快なまま週末は終わり,翌週がのこのこと
やってきた.不愉快な週末は不愉快なウィークディを招
く.
 ご丁寧に速攻朝一で,仕事場の受け付けカウンターの
女がヘマをやらかしてくれる.それだけはやってはなら
ないヘマを,たたき付けてくれた.青年の管轄下である
が故に,当然責任は逃れられない.
 彼女の性格は良いだろう.受付向きの顔でもある.失
敗をそう繰り返すほうでもない.ごく普通のOLであろう.
だが,今回は致命的であった.弁解の余地はなかった.
  
 青年は弱った.参った.
 奴がしたり顔でやって来るに決まっていたし,奴も出
てくるタイミングを待っている.きっと,じっと待って
いる.
 来た.
 漏らさずやはり,青年の上司がやってきた.
 小柄で小太りな脂ぎった,漫画に出てくるような四十
がらみの典型的な上司.のったくったと,わざと歩みを
遅らせてやってくる.
 既にワンフロアー先から青年と眼があっている.しか
も一回眼をそらす.こっちまで響くような,大きな痰の
絡んだ咳払いまでして.決して清潔とは言えない風体に
似合った澱んだ腹の中身が,今にも口から溢れんばかり
であった.
 「くそ」
 当然,上司への嘔吐でもあったが同時に,何とかして
下さい,という明らかな依存の媚びるような受付嬢の視
線への,返答でもあった.
 「どうしたね,来生君.ん?」
 始まった 分かってるだろ どういう始末か知ってい
るだろ 分かった上でやってきたんだろ 首を傾げて「
ん?」とは何だ
 「いえ,実はですね・・・」
 青年は延々と説明を求められた.初めから,ねちねち
と事の至るまで,執ように説明を求められた.しかも,
ミスの大元となる受付嬢の対応に説明が至ると,何度も
繰り返し尋ねた.
 「ん? いまいち理解できんが」
 ネバつく声が耳元にまとわりついた.
 「ええ,ですから彼女が応答した際にですね・・・」
 青年はにこやかに,なごやかに対応した.慣れてはい
たものの,前日の髭面の一件もあり,今日は一段と苦労
した.
 「ではその時,何故にだねぇ・・・」
 くそ 今日は引き下がりゃしねぇ こいつ
 「ええ,まったくおっしゃる通りなんですけれども,
いかんせん彼女も今回の場合は・・・」
 「それは君ぃ,やはり・・・」
 今でも,まだこんなタイプは日本全国に多数存続し,
繁栄し続けているのだろう.今に始まり,ここに始まっ
た事ではない.
 分かり切っていたが,やりきれなかった.ある意味こ
れは,SMか?
 「ふぅん,困りましたなぁ.」
 全部承知の上でやってきて,もう一度吐かせた挙げ句
に吐き捨てられた.問題解決,現状把握は二の次で,当
面の憤慨の的のお役目を青年に引き受けさせているのが
眼に見えた.これもいじめの構造の一形態に過ぎないの
であろうか.
 「いやいや,弱ったなぁ,来生君.」
 ここで事態の対処法をこの小太りに尋ねても,小太り
は当惑し,何故に私に尋ねるのかね,といった新たな憤
慨の的に青年が張り付けられる事も分かり切っていた.
小太りに問題処理能力はない.決して解決を依頼しては
いけない.
 受付嬢はだんまりを決め込んでいる.これが最も得策
なのは痛いほどよく分かる.が、青年には立場上その余
地はない.
 「来生君,任せるよ,後の処理は.君にねぇ.」
 水戸黄門の印篭が出ない日はない.が,今日は出るま
でに随分と時間がかかった.助さん角さんですら,もう
ばっさり切られて死んでしまっていた.
 「はい.大変申し訳ありませんでした.」
 一件落着 落着か
 「しかしこれは,次の月例会議の議題にすらなりかね
んなぁ.」
 死にやがれ 小太り
 今日は小太りも,ただでは引き下がらない.何故こん
なに粘ってくれるのか.
 「はあ,そうすると予算会議を前に,私達の部署は随
分不利な状況になってしまいますね・・・」
 小太りが自ら月例会議の議題にかけない限り,この話
題は議題に上りはしないことぐらい,夢の国のミッキー
マウスにですら理解できることであった.
 この言葉を待っていたんだろぅ 無能な小太り
 「そこは課長の判断で,ちょっと今回は,という事で,
宜しく何とかして頂けないものでしょうか.」
 どうだ 満たされたか
 「ふぅんむ・・・」
 いくら無能な小太りとはいえ,自分の部署のミスを自
分で議題にかけ,予算前に自分の首を絞める様なことは
決してしないことぐらい分かり切っていた.
 これが欲しいか 小太り
 「お願いしますよ.頼りにしてますから,課長.」
 にちゃりと小太りは笑った.
 「まぁ,会議では触れないでおくとするかぁ,秘密だ
な.」
 死ね
 「ありがとうございます.」
 こぼれるような満面の笑みを浮かべて,川縁の草原を
駆け回る少年のように,誰にでも接する事が青年にとっ
て何でもない事になっていた.
 それが必要であった.
 40分間にわたって八百長レースは続き,小太りのちっ
ぽけな自尊心が満たされて終わった.いつものように最
後に八ベエがおどけていた.黄門様も満足げに笑ってい
た.
 八ベエは,本当に笑っているのだろうか.

 小太りの嵐は去っていった.
 「ありがとうございました.」
 受付嬢らしい,明るい他人行儀なお礼が帰ってきた.
そこに感情はなかった.別の警戒心が漂っている.
 「いや,いいんだよ,慣れてるから,あの人のこうい
うの.」
 受付嬢のもっぱらの問題がすり変わりつつあるのに,
青年はいち早く勘づいた.明らかに,青年から発せられ
る可能性の高い,次の言葉に対する警戒心だけが研ぎ澄
まされていく.青年はそんな乾ききった受付嬢の感情の
中に集結していく,一つだけはっきりと見い出せるもの
に見当が付き始めていた.それは瞳の中に色濃く映し出
され初めていた.
 これぐらいで言い寄ってくるなよ 恩着せがましい
 青年の胃の中に砂が詰まってきた.

 翌日,小太りは死んでいた.
 青年は翌日の午前中に,仕事場で小太りの死を知った.
まったく突然の事であった.どうやら昨日の帰宅途中に,
どこぞの誰ぞに身ぐるみ剥がされた挙げ句,刺されてし
まったらしい.全裸のまま翌朝まで発見されることなく,
ゴミ出しにやってきた小太り自身の女房に発見されたら
しい.まったく自宅のすぐ側まで帰り着いていながら無
念なことに.
 青年は,考えただけで吐き気を催した.
 恐ろしく嫌な予感と,死に対する恐怖と,僅かな愉悦
を感じていた.吐き気は僅かな愉悦に対してであった.
恐ろしく嫌な予感は,直感であった.とんでもなく厄介
な事に巻き込まれるような感じがしてならなかったが,
吐き気と予感に占められ,死に対する恐怖は,徐々に薄
れていった.

 警察の事情徴収は,社員全員に対して行われた.
 青年は,まず自分が疑われるであろう事を予測して,
不必要な恐怖に対する免疫を準備した.
 最悪の事態を想定していれば 何とか切り抜けられる
 青年のモットーであった.だから青年は,自分が犯人
であると,まず疑われることを想定して事情徴収に臨ん
だ.自分で考えても自分が一番怪しい.
 無論青年は,小太りの死亡推定時刻の前後2時間には
アリバイがあった.会社にいたのだ.大勢の人間が知っ
ているし,見ているし,一緒に仕事をしている.まして
や,ただ憎いからといって刺してしまうほど,青年はお
馬鹿さんではない.ただ自分が一瞬満足するだけで,後
の一生を棒に振ってしまう.それはクレバーではないし,
ハイリスク・ノーリターンに近い.
 青年の事情徴収は他の社員同様に,通り一遍で終わっ
た.
 青年はどうも嫌な予感が拭いきれなかった.





 一週間が経とうとしていたが,小太り殺人のめぼしい
容疑者すら,浮かび上がってこないようであった.
 程々に生きてきた小太りの人生には,程々に愛してく
れている人々がいて,程々に憎んでいる人々がいるだけ
であった.

 その日の仕事が終わって,青年は同期のフジヤマと飲
みに出掛けた.何を深く語り合うわけでもなく,ただ一
緒に,他愛もない事を話しながら,ありきたりの居酒屋
で呑んでいた.何処にでもいる人々が,何処にでもある
話しで盛り上がっている,ありきたりの夜であった.
 どこぞで無理に盛り上がる、若い合コンの歓声が多少
耳障りな程度であった。耳障りなのは何故だろうか.本
当に疎ましいのか.或いは羨ましいのか.羨ましいのは
何か.
 「なぁ、受付の京子ちゃんて,彼氏とかいるのかな.
話し聞いたことないか,来生.」
 「あぁ? いるんじゃねーの,可愛いし.」
 青年は「バークレィ」に火を灯し,ゆっくりとくゆら
せた.
 合コンの黄色い歓声は,耳の中の小さな鼓膜を執拗に
揺さぶり続けた.その振動は何故か,焦燥感を絞り出し
ていた.いや,妬みなのか.
 あせり? 何に対する?
 「何よ,興味ねぇの? お前.今日彼女をかばってた
じゃん.ナイスポイント.」
 また女の話か こいつは
 フジヤマはぐびぐびと,ビールのジョッキを開けていっ
た.
 「別に.しょうがないだろ,立場上.」
 青年は日本酒をちびりと舐めた.
 青年は,日頃から紺の制服であるタイトスカートから
のぞく,彼女の太股に頬ずりしたい欲求に駆られてしか
たがなかった.できるなら,全身隈無く撫で回したくも
あった.奥底からゆっくりと染み出してくるような,乳
色の靄に包まれた澱んだ感情.クールこそ青年のポリシ
ー.ましてや自分の大脳までが,性欲にまみれているな
どという事を,認めるわけにはいかなかった.
 「ホントか? 趣味分かんねぇな。」
 「お前こそ,興味津々かよ.」
 あの小太りが死んでしまう前日の彼女の失敗の後.特
にあの時の彼女の眼差し.人の淡い心を見抜いた残酷で
的確な野生の五感.あれが青年の彼女に対する感情を決
定づけ,また青年の思考をコントロールしていた.
 出来ることなら全身を舐め回したいこの感情は,認め
られなかった.自分に言い聞かせて,納得させる必要が
あった.あの冷めた視線を自分に投げかける彼女に対し
ての,自分のもうもうとした心の内側を他人に吐き出す
わけにはいかなかった.
 「いまいち,好きになれんな彼女は.」
 合コンの席では,恒例のゲームが始まっていた.それ
で触れ合う酔いの席.大脳の中を目まぐるしく回路が交
差した.どうして若者達の宴の歓喜に,耳をそば立てて
いるのだろうか.
 「うそーん.」
 興味津々でフジヤマが問いただした.あたかも真実を
知ってでもいるかの様に.
 一秒で嘘が出てきた.
 「あんまり好きなタイプでもないし,好きな体つきで
もないし.」
 「言うね,来生君.」
 くそ
 「仕方ないだろ.」
 「まぁ,趣味の問題ですからねぇ・・・」
 突然ガラスが割れる音が響いた.続いて何処かで若く
て威勢のいい男の声が続いた.
 「いてーな!! 何しやがんだ,ちくしょう!!」
 鼓膜にまとわりついて止まなかった,あの合コンの場
から聞こえてきた.どうやら一悶着らしかった.
 若いから
 反面,羨ましくもあったのも事実である.何を? 何
故?
 「ちょっとこっちに来い.」
 その妙に冷徹で感情のない言葉に,青年はぎくりとし
た.
 はっきりと何処かで聞き覚えのある声であった.この
とてつもなく不快な声.青年のワイシャツの中は,じっ
とりと汗ばみ始めていた.
 続いてずるずるずる,と人一人がいとも簡単に引きず
られていく音が,カウンターに座っていてた青年の,背
後を通り過ぎていった.
 「放せ,こらぁ!!」
 引きずられる方の男の抵抗は,青年には無に等しく聞
こえてならなかった.と同時に,いわれのない不安がよ
ぎっってしかたがなかった.
 煙草臭い空気が,青年の背後をかすめていった.
 決してカウンターから後ろを振り向けなかった.絶対
に振り向けなかった.何を今更,あの日の週末の午後の
不可解な訪問者の事を引きずっているというのか.
 青年にははっきりと,とめどなく,これは厄介なこと
に巻き込まれそうな気がしてならなかった・
 「おい,見てみろよ,あれ,後ろよ.来生よぅ.」
 青年はフジヤマの言葉にも,決して振り向きはしなかっ
た.
 「よぅ,来生,見てみろよ,喧嘩だぜ.」
 居酒屋の外に放り出された男の,鈍いうめき声は耳に
届いていた.
 「あぁん.」
 生返事しか出なかった.
 「すっげぇ恐いな,あのおっさん.」
 「ふぅん.」
 フジヤマが青年の肩を引いて,今しがたの出来事を話
そうとしていた.
 「いいじゃねぇか,なぁ.合コンで騒いで.姉ちゃん
達とチチくりあって,今夜の一瞬の為にギラギラしてたっ
てなぁ.かわいそうにな、あの兄ちゃん.絡まれたのか
な.」
 カウンターを向いたままの青年の生唾は出なくなって
いた.
 「さぁ.」
 フジヤマはカウンターに向き直って,ジョッキのビー
ルをぐいっと空けた。
 「恐そうだったぞ,あの髭面.」
 青年の中で,何かがカチリと音を立てて噛み合った.
 あの髭面.

 青年は翌日の夕刊で,あの居酒屋の裏で大学生の死体
が発見されたのを知った.





 不快で不快でしかたがなかった.最近,寝ても覚めて
もあの髭面が脳裏から離れようとしなかった.
 いわれのない不愉快さを,青年は持て余していた.
 俺と何の関係もないのに
 しかも青年の心の中では,関係ないと断言できていな
かった.あの日の週末の日曜日に,あの髭面が青年の部
屋を訪れてから,何かがしっくりといっていなかった.
 小太りの死は何だったんだ
 俺の知った事かと断言できた.
 髭面が犯人かもしれないなんて 余りにもレンタルビ
デオ過ぎる
 と,自嘲してみた.自分が物語の,しかも後味の悪そ
うな救いようのないビデオの主人公になるかも知れない
だなんて,到底考えられなかった.が,心の一部はその
可能性も示唆していた.ポリシーから言えば,最悪,そ
のパターンも考慮に入れなければならない.
 この前の居酒屋の裏の死んだ大学生の時は
 明らかにフジヤマは言っていた.
 あの髭面と.
 そもそもあの大学生が 俺と何の関係があるんだ 合
コンだって関係ない そんなの 耳障りだったぐらいじゃ
ないか 気になってた? 何もかもが点に過ぎない上に
関連性が全て俺の主観によっている 気になってた? 
今回は繋がっていない 羨ましかった? 主観で判断が
下せるほど単純なはずはない 羨ましい?
 青年は,錯綜する主観を否定した.が,直感は否定し
きれない.どうにも否定しきれない.そこにこの上のな
い,極上の恐怖があった.
 しかも,不安から恐怖への漢字変換は,妙にスムーズ
に行われていた.
 青年は気分転換に,散歩にでも出ようと決心した.

 考えてみれば,髭面が意図不明の訪問をしてから今日
で,丸二週間が経っていた.二週間で二つの殺人と何ら
かの関係を持つとは,はっきり言って異常であることは
認めざるを得ない.ただの新聞記事ではない.
 くそ 認めたくもない
 今週の日曜日もまた,不愉快であり続けている.決し
て髭面は,青年を解放してはくれなかった.
 何故.
 せめてこの長閑な川縁だけは,裏切って欲しくないと
青年は心から願った.決して俺を不快にしないで下さい
と,切に祈りさえしていた.
 川のせせらぎが青年を癒したのは,ほんのつかの間で
しかなかった.
 青年の腰掛けた土手から見下ろして下の方のベンチに,
カップルが背を向けて座っていた.
 心臓停止.
 瞳孔はぎりぎりと閉じ,全身を一瞬にして微弱な電気
が流れ,汗が吹き出てきた.生物的に青年の体は自己防
御の態勢にシフトしていた.
 カップル あのカップル
 次の瞬間,青年は声にならない絶叫を挙げていた.否
定しがたい絶望が全身を覆い尽くしていた.
 あのカップル!!
 女は見覚えがあった.見覚えどころではない.はっき
りと素性も知っていた.青年の会社の,あの受付嬢であっ
た.
 まだ春には少し早いかのような,柔らかな膝上のスカ
ートが青年の目に焼き付いた.そう,今日彼女がしてい
るような服装こそ,青年の求めている彼女の姿であった.
そうあって欲しい彼女が眼下に,そうあって欲しくない
状態で存在していた.どす黒い感情が沸き上がってくる
のを,辛うじて制止することが出来て幸いに感じていた.
 それすらも吹き飛んだ.
 その男.
 その見覚えのある グレーの裾長のコートはやめてく
れ!!
 心で叫んだところで,何の解決にもなりはしなかった.
むしろ,悲痛だけが増幅されていった.ありったけの大
声で叫びたかった.
 考える間もなく,青年は土手から腰を上げ,逃げ去ろ
うとしていた.これ以上見ておいて有益な情報は何もな
かった.あまりにもその光景は青年にとって侵襲が大き
かった.これ以上はココロが保ちそうになかった.
 グレーの裾長のコートの男が,不意に土手を振り返っ
て見上げていた.狙いすましたかのように.
 逃げることすら,もう許されない状況なのか・・・
 青年の両眼は,囚われた野鼠でしかなかった.

 あの髭面が青年を凝視しながら,にちゃりと笑った.





 月曜日がやってきていた.
 青年には信じられなかった.弱り果てていた.精神の
限界に達しつつあった.
 一晩中脳裏を駆け巡った構図.今日,彼女は出社せず,
夕刊に死体として記事になる.死体になる.死体になる.
死体になる.死体になる.
 冗談じゃない 俺は彼女を知っているし 髭面とも面
識がある 遂に 決定的に俺に干渉し始めやがった あ
の髭面 俺の眼を見て笑いやがった ちきしょう ちき
しょう ちきしょう

 予想外に彼女は定時刻に,ちゃんと出社してきた.
 それはさらに予想外に,最悪な事態でもあった.つま
り全ては青年の想像する最悪の事態の,その上を流れて
いた.
 彼女はいつになく,厚化粧になっていた.おかしい.
何かを覆い隠すかのように.どうして厚化粧なのか.や
やもすると凶悪な像が脳裏を走り抜けていった.
 ずきゅう,っと腎臓の辺りから絞り出された妙なホル
モンが,青年の体内を駆けめぐった.動悸がする.
 彼女の化粧の厚塗りは特に目の回り,頬,首筋.遂に
は青年は,彼女の唇の端が切れて腫れているのにも気付
いてしまった.そういえば何となく顔全体も腫れ気味で
あった.どこかから転げ落ちたものか.そんな想像が,
甘い幻想でしかないという事が常に併走する.
 心臓が縮み上った.
 何て事を ああ あの髭面 何て事を・・・
 青年の視線と彼女の視線が,皮肉にもカッチリと噛み
合った.その瞬間に全ての彼女を取りまく現状も,青年
の思考とカチリと噛み合った.
 よりによって彼女に・・・
 髭面は青年の心の内を把握しているかのように,青年
をじりじりと追いつめていく.
 青年が嘆くより早く,受付嬢の侮蔑の眼光が突き刺さっ
てきた.
 何て事を ああ あの髭面 何て事を・・・何て事を
 ああ あの髭面 何て事を・・・何て事を ああ あ
の髭面 何て事を・・・何て事を ああ あの髭面 何
て事を・・・何て事を ああ あの髭面 何て事を・・・
何て事を ああ あの髭面 何て事を・・・
 「何,見てるんですか」
 吐き捨てて彼女は席を立ち,奥のトイレへと逃げ込ん
でいった.
 何て事を 何て事を 何て事を 何て事を 何て事を
 何て事を 
 同僚が彼女と擦れ違うようにやってきた.
 「おぅ,来生.挨拶回りに行くぞ.」
 青年の眉間には,深く皺が刻まれていた.ぎりり,と
奥歯が軋んだ.

 フジヤマと歩いていても,上の空であった.
 あの髭面 よりによって何て事をしやがった 何が目
的なんだ 何で捕まらないんだ そもそも何なんだ 誰
なんだ 
 「おい.」
 何で
 「おぉーい.」
 何で 俺なんだよ
 「おぉーいって,来生.」
 「あぁっ!! 何だ!!」
 青年は怒鳴っていた.全てが許されざる方向へと進路
を変えていった.青年を主人公としながら,青年には何
の相談もなく,最悪な方向に.
 正に典型的な巻き込まれ型ストーリー 拍手拍手
 自嘲しながら,脳髄が爆発しかけていた.人が二人死
んでいる.青年の会社の受付嬢も巻き込まれた.しかも
その全ての人に対して,青年が何らかの形で絡んでいる.
しかもその事件の張本人は,警察にも,誰にも知られな
いまま青年のすぐ側に常に存在している.想像できない
エリアに突入している.対処できない.
 「何なんだよ一体.お前,変だぞ.」
 「変にもなる!!」
 どうなってんだ,こいつ.というフジヤマの目が,よ
り一層青年を高みに奉りたてていった.
 「受付の京子ちゃんにしたってさ.」
 カチンときた.同時に背筋に不快な電気が疾った.
 その話しはいい するな 聞きたくない 言うな
 「変だって,絶対.」
 分かってるから言うな 馬鹿 言うな 馬鹿 分かっ
てるから言うな 馬鹿 言うな 馬鹿 
 「あの厚化粧・・・」
 言うな 言うな 言うな 言うな 言うな 言うな 
言うな 言うな
 「ひどい目にでもあったのかな,男にでもよ.」
 ひどいめ ひどいめ ひどいめ ひどいめ ひどいめ
 ひどいめ ひどいめ ひどいめ ひどいめ ひどいめ
 ひどいめ ひどいめ 
 青年の心のバランスが崩壊しつつあった.しかもそれ
は既に臨界点.原発もメルトダウン寸前の,危うい紙風
船.触れれば裂けて内容物が飛び散りそうであった.
 「彼に無理矢理襲われて,きゃあ,なんてね.」
 言いやがった この馬鹿野郎がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
 「うるさいぃぃぃぃっっっ!!」
 青年はフジヤマの襟元を鷲掴みにしていた.何だ,こ
いつ,というフジヤマの明らかな侮辱の視線が,青年の
耐え難くごうごうと燃え始めた行き場のない怒りの炎に
油を注いだ.
 「お,おい,何だよいったいよ.お,お前なのか彼女
ヤッたの?」
 その"ヤッた"というニュアンスが,青年をさらに高い
場所へと吊るし上げた.
 「そんな訳ないぃだろぅうがぁああぁっっ!!」
 白昼商店街の歩道のど真ん中で,前後不覚に陥ってい
た.正気が春の陽光に溶け込んで行くかのように,青年
は境界線をさまよっていた.自我が危うい所に立ってい
るのがはっり理解できた.これ以上少しでも,例えささ
いなきっかけでも,自分に降りかかれば確実にあちら側
に行ってしまう.あちら側に.
 ごぶっ.
 鈍い音と共に,不意に掴んでいたはずのフジヤマの襟
元が手の内から消えた.
 フジヤマも視界から消し飛んでいた.全く消し飛んだ,
という表現がしっくりする.これぐらい全てがしっくり
していれば.
 何だ
 一瞬,訳が分からなくなっていた.それでなくとも前
後不覚だというのに.何かが降りかかり始めようとして
いるのが,明かであった.さらに青年を大きなどぶ川の
濁流が襲いかかった.
 やめてくれ これ以上はやめてくれ あちら側に倒れ
てしまいそうだ
 青年は自分の頬に,生暖かいものが飛び散っているの
に,ようやく気付いた.さっきまでフジヤマの襟元を掴
んでいた右手で拭ってみた.
 右の手の甲に,べっとりと広範に,まるで赤い絵の具
をチューブから直に塗りたくったように,真っ赤なぬる
りとしたものが付着していた.
 血だ
 どうしようもない混迷状態で,誰かの助けを求めるよ
うに血糊のべったり付いた手の甲から視線を外した.
 外した視線の前に,髭面が立っていた.
 不意にそこに存在していた.誰の断りもなく,当然人
生の主人公である青年にも断りなく.主人公とは名ばか
りで,ただの駒に過ぎないようであった.
 青年は,髭面と真っ正面から対峙する形になっていた.
 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!」
 青年は泣いていた.号泣していた.そして力一杯,頭
部の血管が切れてしまう程に,泣き叫んだ.もう一生泣
くことはないであろうとも,無意識のレベルに刷り込ま
れていた.青年が少年の頃,遊園地のお化け屋敷で不意
打ちを食らったときよりも,全身の毛穴一瞬で広がった.
 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!」
 絶叫しながら一歩後ずさり,視線を泳がせた路上には,
鼻と口から大量の出血を続けながら,へたり込むフジヤ
マと,それを見下ろす形をとって髭面が立っていた.髭
面は差詰め,蛙を目の前にした蛇.その力量と結末は一
目瞭然としていた.
 髭面は節くれだった右手に,鈍く陽光をはじき返して
いるどす黒い銃を握っていた.こいつでガツンと,取り
あえず殴り倒したと察する以外にはなかった.致命的な
一撃ではない.まず獲物の足を止め,圧倒的優位に立ち,
その後決定的な一撃を食らわせる.そう,決してその次
のない一撃を.これはその一歩前の光景である.
 肉食獣のそれである.
 何だ あんた
 青年の大脳灰が真っ白になった.すっぽりと抜けたと
いう表現がぴったりくるかもしれない.全てが青年から
抜け出ようとしていた.文明の中に表出した原始.その
境界線に澱みはない.
 何 銃って 何言ってんだ 映画じゃあるまいし
 銃声が響きわたった.
 渇いていた.こんなにも本物は渇いた音がするのかと,
冷静に考えていた.青年の顔面に生暖かい血液が飛び散っ
た.反射的に片目をつむったが,恐怖がもう片方をつむ
ることを許さなかった.口の中にも鉄サビの様な変な味
が広がっていた.
 銃を撃った こんな町中で 銃を撃った こんな町中
で 
 辺りを見回してみた.が,誰一人気付いてすらいない
様子だった.高校生達は平然と,数人でふざけ合いなが
ら流れていった.買い物帰りの主婦も,振り返りすらし
ない.子供連れの家族も素通り.
 決して見て見ぬ振りをしているのではない.誰の目に
も,この男も,男のする行動も存在していないかの様で
あった.この商店街で.
 何故
 青年の足下には,既に頭部が肉塊と化した元フジヤマ
が無惨に転がっているだけであった.頭部は路面に叩き
付けられ,へばり付いていると表現した方が妥当か.青
年は初めて,血の海という表現を理解できた.
 殺したのか こいつは 殺したのか 俺の前で・・・
 崩壊した青年は,たたき付けられたトマトの様に射殺
されたフジヤマの脳と返り血を浴びて,悲惨な様相になっ
ていた.
 青年は軋むようにゆっくりと,銃を握る髭面を見た.
 「迎えに来た.」
 髭面が,にちゃりと笑った.






 青年は自分のアパートに逃げ帰っていた.帰りの道中,
道筋,一切を記憶していない.ただひたすらに,ありっ
たけ,眼前に広がる光景だけを手前にむしり取るように
走ってきた.
 アパートにたどり着いたが,それがどうだ.
 もう,逃げ場はない.


 アパートのドアをノックする音に,青年はようやく反
応した.
 ごつごつごつごつ
 いつぞやの日曜日が脳裏を巡る.
 何で なんだ
 ごつごつごつごつ
 どうして 俺なんだ
 ごつごつごつごつ
 助けて くれ
 鼻水を流しながら,青年は泣き伏せっていた.
 「泣いても無駄だ.」
 ドア越しから,髭面の図太い声が部屋中に共鳴してい
た.このドアは,この髭面の前では存在しないに等しい.
 感覚鈍麻
 感情鈍麻
 私は 貝になりたい
 もう,出口は一つしかなかった.
 現実と迎合するしかなかった.
 逃げ道はなかった.
 青年はアパートの部屋の,ノックのする玄関へと腰を
上げた.
 ごつごつごつごつ
 「お前・・・・・.誰,なんだよ.」
 鼻水を流しながら,青年が尋ねた.
 「知らない訳がないだろう」
 「知るかお前なんか!! 誰だぁ!!」
 「俺はお前だ」
 「言うと思った.」
 青年は自嘲していた.感情には既に統一性すらなかっ
た.涙も,鼻水も,涎も流れていった.
 魂も.
 「何で,町中で,誰も,よぅ・・・」
 「泣くな見苦しい」
 髭面が諭した.
 「何で,気付かないん,だよぅ,こいつによう・・・」
 しゃくりあげていた.
 歴然とした解答が返ってきた.
 「全てお前の事だ.誰も知る訳がない」
 「俺は何もやってないぃ.助けてくれよぅ,誰かぁ・・・
・」
 毅然とした質問が,ドア越しに帰ってきた.
 「誰に助けを求めているんだ」
 青年の、しゃくりあげる鼻水の音だけが、響きわたっ
ていた。
 「誰もお前に興味はない 誰も来るはずがないだろう」
 
 青年の,しゃくりあげる鼻水の音だけが,響きわたっ
ていた.
 「お前の代わりに俺がやった事だ」
 青年の,しゃくりあげる鼻水の音だけが,響きわたっ
ていた.
 「お前の望んでいる事など 他人が知る訳もない」
 青年の,しゃくりあげる鼻水の音だけが,響きわたっ
ていた.
 「泣くな」
 青年の,しゃくりあげる鼻水の音だけが,響きわたっ
ていた.
 「泣いて解決する事など 何処にもない」
 髭面の声色が変貌した.
 「開けろ」
 青年の,しゃくりあげる鼻水の音だけが,響きわたっ
ていた.
 「さっさと このドアを開けろ」
 「好きなように入ってくればいいだろぅが!!」
 青年の絶叫はすぐに遮蔽された.
 「お前が開けろ お前自身が迎合して お前がお前の
ドアを開けるんだ」
 青年の,しゃくりあげる鼻水の音だけが,響きわたっ
ていた.
 「何なんだこれよぅ.現実なのかよぅ・・・」
 「全て現実だ 後は お前が現実になるだけだ」
 沈黙だけが永遠に続くかのように思えた.
 「俺は,死ぬのか?」
 「俺は望む事を隠さない 本当の姿になるだけだ」
 青年の手がドアノブに伸びた.ゆっくりと,着実に,
震えながら.
 ドアノブは冷たかった.

 「この世に 逃げ場はない」

 髭面が最後に言った言葉は,それであった.
 ドアに釣り下げられていた小さな鏡に,青年の顔が小
さく映っていた.
 そういえば最近 長いこと髭すらそってなかったなぁ
 ドアを開けて外の空気を吸ってみた.妙に澱んでいて,
何だか息苦しく感じた.踏み出した一歩は,妙に毒々し
くもあり,清々しくもあった.
 部屋の中を振り返ってみた.
 こたつに足を突っ込んだ青年が座って,にちゃりと笑っ
てこちらに手を振っていた.

 髭面の青年は黙って背後のドアを締め,グレーの裾長の
コートの前を閉じ,隣の部屋へと向かっていった.

 隣で誰かが ノックしている

    
 終




2001.1.6 




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