投稿小説コーナー
    






▼ 第26回投稿作品 ▼


1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16


 
   「瞬」

                                  北風寛樹       




          1

 昭和59年三月、冬の終わりの淡い日差しをうける、広島市郊外のとある場所で、河原(かわはら)一家は、引っ越し先の小田原に向けて出発しようとしていた。
「ちいちゃん、はようしんさい!」
 真弓(まゆみ)は、出発の時間になっても二階の部屋から出てこない娘の千佳子(ちかこ)を、玄関から呼んだ。
「うーん。いまいくけぇ」
 そう答えると、千佳子は部屋のドアを閉め、階段を下りて行った。
「なにしよるんな。八時に出発せにゃ、電車に遅れる言うたでしょうが!」
「ほいでも、お部屋にさよならしよったんじゃけぇ」
 靴を履きながら、千佳子は、顔を強ばらせている真弓の顔を見上げて言った。すると、軒先に呼んでおいたタクシーの横で、二人を待っていた夫の達也(たつや)が、二人の側にやって来て、
「そうか、ちいちゃんは、お部屋にさよならしてたのか」と、二人のやり取りをなだめる様に言うと、千佳子は、真弓よりも背の高い達也の顔を見上げながら、
「うん。窓さんにも壁さんにも、みんなに、さよならをしよったんよ」と、うれしそうに答えた。
「そろそろ、行く時間じゃのぉ」
 三人の話に割って入る様に、玄関のすぐ脇の部屋から真弓の父正造(しょうぞう)が浴衣姿のまま出て来た。
「いつでも遊びに来んさいよ」
 正造の後をついて来る様に、母和枝(かずえ)も普段着にエプロンという格好で玄関に出て来ながら、さびしそうに三人に言うと、電車の中で食べるようにと、三人分のお菓子とジュースを真弓に渡した。
「お母さん、そがいなもんは駅でこうてしまうけぇ、えかったのに」
 いつも気を遣ってくれる母に、真弓は申し訳なさそうに言うと、せっかくだからと言ってバックにお菓子とジュースをしまいこんだ。
「そろそろタクシーに乗ろうか」
 達也が、三人にそう促すと、三人は、古い玄関の敷居をまたいでタクシーの方へと歩いて行った。

 達也の転勤が決まったのは、ニ月の人事異動の時だった。達也は、もともと小田原の人間で、河原と言う名字も達也の家の姓であった。達也は広島に来る前、東京にある電気メーカーの本社に勤めていたが、二十六歳の時、同じ会社の広島支社に転勤が決まり、引っ越して来ると、同僚の紹介で、当時デザイナーを目指していた、二つ年下の真弓と知り合う事になった。お互いに、どこにどう惹かれたのか、達也と真弓にとっても今は解らないが、かなりの熱をお互いに上げていたのは確かな事で、知り合って半年もたたずに、千佳子が出来てしまったのである。そしてそれがきっかけとなり、二人は達也の両親の反対も聞かずに、結婚してしまうと、最初は、達也が借りていたアパートで暮らしていたが、真弓の希望と、千佳子を育てる環境を考慮した事で、アパートよりも広く、騒音もすくない真弓の実家で暮らすことになった。達也は、長男であったため、真弓の家で暮らす事に、最初は抵抗があったものの、実際に生活していくうえで、真弓の両親の人柄に触れ、一年も経たぬ間にすっかりなれてしまった。
 あれから七年が経とうとする今日、達也には、いくら義理の息子とはいえ、元は他人の自分を快く置いてもらい、また娘の千佳子を他の誰よりもかわいがってくれた事への、感謝の気持ちと、今回の会社の人事異動で、また東京に転勤になった自分に、気を遣ってくれる両親の心の広さに、うろたえにも似た尊敬の念が渦巻いていた。
 達也は、タクシーの前まで来ると、見送ろうと三人の後ろをついて来ていた正造と和枝に向かって、言った。
「お父さん、お母さん、本当に七年間ありがとうございました。東京の本社に行きましたら、今度は地方にとばされないようがんばりますので、真弓さんの事は心配なさらないでください」
「うんにゃ、広島にとばされるような事があっつりやぁ、喜んで受けんさいや」
「まぁ、いけんよそがいな事を言うちゃぁ」
 急に改まった達也を、もちまえの人柄でなだめようとする正造の冗談に対して、和枝はいつもの様に正造を制した。
「おじいちゃん! さよならぁするんはいやじゃ」
 達也と祖父母の話を聞いていた千佳子は、急に淋しくなった様子で、正造の浴衣の下から覗いているももひきを着いた足に、しがみつくと声を大きくあげて泣き始めてしまった。
「ちいちゃん、お父さんとお母さんのゆうてん事をよう聞いてええ子にしとりんさいよ、ほぅしたら。すぐ、おじいちゃんが会いに行く
けぇのぉ」
「ほんま!」
「おお。ほんまもほんま、そのかわり、泣きむしちいちゃんのままじゃったら、おじいちゃんもやくそくぅ守らんよ」
「うん。わかった」
 正造の慰めが効いたのか、千佳子は泣くのをやめると、正造の足から離れた。そして、真弓の所に行くと、タクシーに乗るように促されたので、這いつくばる様にしてタクシーの後ろの座席に乗りこむと、その後から、真弓も、千佳子の隣の席に乗り込んだ。
「じゃあいきます」
 達也もそう言うと、タクシーの助手席に乗りこんで、少し潤んだ目を前に向けた。タクシーの運転手も、この別れの場に気を遣っている様で、あまりせかす様な感じも無く、ゆっくりとドアを手元のボタンで閉めると、達也に、行く先を確認して「ええですかいのぉ」と、その後につけ加えた。
 達也と運転手がやりとりしている間に、真弓は手動式の窓を開けると、正造と和枝に向かって、
「着いたら電話するけぇ!」 と、こらえていた淋しさが思わず出てしまい、少し涙まじりの声で言った。
「気いぅつけてのぉ」「風邪ぇひかんようにね」
 悲しそうな声で正造が真弓に言うと、その後に泣きながら和枝が言い、潤んだ目で娘を見つめている。
「お願いします」
 達也は運転手にそう答えると、車は広島駅に向けて、ゆっくりと走り始めた。千佳子は、後ろの窓から、こっちに向かって手を振っている正造と和枝に向かって、いつまでも手を振っていた。


「ちいちゃん! ちゃんと座っとりんさい!」
 真弓は、自分の隣の窓際の席で、足をばたつかせて座っている千佳子に、叱りつけるように言った。何度か小田原の達也の実家に行った事がある千佳子ではあったが、久しぶりの新幹線と、七歳という年齢も手伝って、名古屋を過ぎたあたりから落ち着かない様子になっていた。
「アイスクリームは、いかがですかぁ」
 車内販売員の女の人が、売り声を上げて、三人の横を通り過ぎようとしている。
「ちいちゃん、アイス食べる?」
 通路をはさんで、一人で座っていた達也は、千佳子の落ちつかない様子を察して、千佳子に聞いた。すると、嬉しそうに千佳子がうなずいたので、達也は、財布から二百円を取りだし、車内販売用のアイスクリームを買って、真弓に渡した。
「こぼさんように食べるんよ!」
 真弓は、普段から行儀が悪く、いつもご飯をこぼしながら食べる千佳子に、いましめる様な声で言った。千佳子は、真弓からアイスクリームを受け取ると、外を眺めながら、美味しそうにアイスクリームをほうばった。窓の外は、青い空がどこまでも続き、流れていく民家の屋根が太陽に照らされ、その反射した光が千佳子の目に飛び込んで来る。千佳子は、アイスクリームを食べ終えると、少し落ちついたのか、座席にもたれる様に座り、持ってきた絵本を少し眺めてから、眠りに落ちていった。

 千佳子は夢を見ていた。それは、いつか千佳子が祖父正造といっしょにテレビのニュース番組を見ていた時、先天的に両腕がない人の生活の現状を取材したVTRが流れ、それを見た千佳子が、珍しい物でも見たような声で、
「あの人にゃ、腕がないけぇ!」と言ったので、正造が威厳のある口調で千佳子に話した光景であった。
「ちいちゃん、そがいな事を言うたらいけんよ。あのひたぁ、腕が無い事で、ひどうつらい思いをしよってんじゃけぇ。ほいじゃけぇゆうて、かわいそうな目で見てもいけんよ。あのひたぁ、一生懸命生きとってんじゃけぇ。ほいじゃけぇ、ちいちゃんも体の不自由な人といっしょに、一生懸命生きていかにゃぁいけんよ」
「うんわかった、おじいちゃんごめんの」
「体の不自由な人だけじゃのうて、心にきずぅおうた人とも、一生懸命いっしょに生きていかにゃあいけん、とくに、広島にゃぁ、ピカドンが昔落ちてのぉ」
「ピカドン?」
「アメリカの兵隊さんが落としていった爆弾の事よぉ。その爆弾が落ちて、いっぱい人が死んでからに、残されたもんは、みんな心に傷をおったんじゃ。ええかちいちゃん、みんなといっしょに、一生懸命に生きていかにゃぁいけんよ。ええかいちいちゃん ええかいちいちゃん……」

 そこで、千佳子は目を覚ました。少し汗をかいていたが、怖い夢を見た時のような汗ではなかった。千佳子は、さっきよりも薄暗くなり、電灯の明かりが目立つようになった車内から、視線を窓のほうに向けると、窓の外は冬の終わりを告げる大雨になっていた。ようしゃなく叩きつける雨が、窓全体をおおい、さっきまで見ていた流れていく外の景色も、その水しぶきのような雨で見えなくなっていた。千佳子は、その視界をさえぎられた窓に映っている自分を見つめながら、正造が話し終えた後、妙に悲しそうな目をしていた事を思い出していた。千佳子とは目をあわさず、遠くの方へ目をそらし、どこに焦点を合わすともなくじっとたたずんでいる正造を見て、千佳子は、いつもとは違う正造の態度に、少し戸惑いながらも、いっしょになって悲しい気持ちになった事を今でも覚えていた。しかし、正造がなぜ、その時悲しそうに遠くを見つめたのか、そしてなぜ、いっしょになって悲しい気持ちになったのか、今の千佳子にはまだ何も解らなかった。





1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16



@ 戻る


@ 感想コーナーへ


北風寛樹さんへの
感想、質問などはこちら
E-mail



このページは GeoCitiesです無料ホームページをどうぞ