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▼ 第26回投稿作品 ▼


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 千佳子が目を覚ますと、そこは病院のベットの上だった。千佳子はあれから三日間、運ばれた小田原市立総合病院(おだわらしりつそうごうびょういん)の病室のベットで眠り続けたのであった。
「ちいちゃん!」
 ベットの横で、椅子に座っていた達也が、体を起こした千佳子に声をかけた。
「・・・・・」
 カーテンの隙間から日の光が差し込み、部屋の中を照らしている。
「ちいちゃん!」
「・・・・・」
 千佳子が、放心した目を達也に向けた。
「ちいちゃん!」
「・・・・・」
 それから達也が、何度声をかけても、千佳子が返事する事はなかった。
 その日千佳子は精密検査を受けたが、脳にも体にも異常はなかった。しかし、誰に何を聞かれても、千佳子は何も答えなかったので、精神科の方で診察を受けるように言われたのである。担当した精神科医は、何を聞いても答えない千佳子を見て、失声症(しっせいしょう){読んで字のごとく声が出ない病気}と断定し、また、父親の達也を見ても、何も反応しないので、記憶も喪失しているのではないかとゆう診断を出した。千佳子の診察が終わると、千佳子は入院している病室に帰され、達也だけ診察室に残された。診察室で担当医は、達也に千佳子の診断結果を話して聞かせた。そして今後は、脳も体も精密検査では異常が出なかったので、長期間入院する必要はなく、二三日様子を見たら退院出来るが、退院した後は、しばらくの間通院して欲しいと言ったのであった。
 実際(じっさい)の千佳子の容態は、失声症ではあったが、記憶の方は一部を除いて全て残っていのであった。その一部とは、真弓が知らない男の人と裸で抱き合っていた事、男の人に下半身を触られた事、瞬が警棒で殴られて動かなくなった事であった。このように子供の脳が、思い出すと極度に自分を追いつめてしまう記憶を、気絶などのきっかけで、自己防衛本能として消去してしまう事は、よくある事である。
 達也は、担当医の話が終わると、千佳子が入院している病棟の方へ歩いて行った。

 面会時間が終わり、達也はアパートに帰ると、真弓に千佳子の容態を話した。真弓はこの三日間、達也から千佳子に会いに行くのを止められたために家に残り、一睡もしないで千佳子が目を覚ますのを待ちながら、泣き続けていたのである。真弓は達也の話を聞き、話が終わると何も言わずに泣き腫らした顔かおのまま、広島に帰って行った。

 次の日から小田原の町には、梅雨の終わりを報せる大雨が降り始めた。

 二日後の月曜日、この日までに達也は、アパートを引き払い、真弓の荷物を宅急便で広島の真弓の実家へ送ると、自分と千佳子の荷物を自分の実家に戻していた。  この日の朝、病院を退院した千佳子が、達也といっしょに病院の玄関を出ると、幸太郎と紀子が、達也といっしょに乗ってきたタクシーの前で、傘を差して待っていた。千佳子の姿を見た紀子は、千佳子に寄って行ってしゃがむと、千佳子の手を取って名前を呼んだ。
「ちいちゃん」
「・・・・・」
 千佳子が、夢遊病者のような目つきをして、何も答えずにほほ笑んだ。達也から千佳子の様子を聞かされていた紀子であったが、自分の孫のあまりに悲惨な姿を間近に見て、涙を流している。それを紀子の後ろで見ていた幸太郎も、涙を堪えるような顔をして、立ち尽くしていた。
 二人とも達也から、千佳子がこうなってしまった経緯を真弓の事も含めて聞かされていたのである。そのために、千佳子をこんなにしてしまう以前に、自分達がもっと真弓の事を理解していれば、かわいい孫をここまで悲惨な状態にしてしまわずにすんだと、反省していたのであった。

 四人を乗せたタクシーが家に着くと、紀子は、千佳子を玄関から家の一番奥にある、日本間に連れて行った。二人が、日本間の前に着くと、紀子が襖を開けた。日本間には布団が敷かれ、千佳子の荷物が、壁際にきれいに並べられてある。紀子は、千佳子の肩に手を添えながら日本間に入ると、千佳子を寝間着に着替えさせ、優しい声で 、
「ちいちゃん、退院したばっかりなんだから、寝てなきゃだめよ」と言って、しゃがんで千佳子を寝かしつけた。閉められた扉と障子を通して聞こえてくる雨音が、日本間に響いている。
「ちいちゃん、今、お菓子とジュース持って来てあげるから、待っててね」
 紀子は、そう言って立ちあがると、襖を開け、日本間を出て襖をゆっくり閉めた。
「パタン」
 千佳子は、前にいっしょに住んでいた時と違う、紀子のあまりに優しい態度に、少しの違和感を懐いていた。

 千佳子は、紀子が持って来てくれたお菓子とジュースを食べ終えると、壁際に並べられた自分の荷物の中から、裁縫道具が入っている箱を取り出した。千佳子は、まだ広島にいた頃、よくこの裁縫道具で色々な物を作っていたのである。千佳子は、その裁縫道具の入っている箱を持って布団に戻ると、体を起こしたまま足だけ布団に突っ込んで、箱を開けた。箱の中には、使い古した裁縫道具と、いろんな生地が入っている。千佳子は、その中からピンクとグリーンのフェルトを取り出すと、花のペンダントを作り始めた。瞬が警察官に警棒で殴られて動かなくなった記憶を失っていた千佳子は、そのペンダントを瞬にあげようと思っていたのである。前から千佳子は、瞬に会うたびに、いつも厳)つい首輪をして雌犬に見えない瞬を、かわいそうに思っていたのであった。そのために千佳子は、ペンダントが出来たらまた瞬の所に行き、そのペンダントを瞬の首に下げてあげようと思っていたのである。そして、そのペンダントの作り方を教えたのは、母親の真弓であった。


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