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▼ 第26回投稿作品 ▼


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 二日後の水曜日、達也はこの日、会社に辞表を提出した。
 千佳子が見つかるまで、達也の心の中は、真弓への怒りに満ちていたが、千佳子が意識を取り戻すと、真弓を責める気持ちよりも、自分の娘がこんな悲惨な姿になるまで、何もしてやれなかった自分の不甲斐(ふがい)なさを責める気持ちの方が、強くなっていたのであった。それからこの日の前日まで会社を休み、部屋に引きこもって自分を責め続けた達也は、自分が千佳子に何もしてやれなかった原因を、仕事の忙しさに向けたのである。また、この日までに達也は、長野県で牧場を営んでいる大学時代の友人に、そっちで働かしてくれないかと頼んで、次の仕事を決めていたのであった。達也が、牧場で働こうと決めたのは、夢遊病者の様になってしまった千佳子に、新鮮な空気に満ちた、美しい自然の中での暮らしを味あわせてあげたいと思ったからである。昨日、電話で真弓に、千佳子の親権を認めさせ、自分の名前と必要事項を記入して判子を押した離婚届を、広島の真弓の実家に送っていた達也は、千佳子が夏休みになるちょうどいいこの時期に長野に引越し、千佳子と二人で、これからの人生を歩んでいこうと決心していたのであった。  

 三日前から降り続いていた大雨は、この日の午前中には小雨になり、昼過ぎには完全に上がって、夕方頃には晴れ間も除いていた。
千佳子は、夕食が出来るのを待っている間、日本間でパンダとうさぎのぬいぐるみを使って一人遊びをしていた。
「うさぎさん、あー、そー、ぼ」
 千佳子が、そうつぶやいている様に、パンダのぬいぐるみを、うさぎのぬいぐるみに近づけている。
「ガラガラガラ」
 玄関の扉が開き、近くの魚屋へ豆腐を買いに行っていた紀子が帰って来た。
「ただいまぁ」
 紀子は、買って来た豆腐を持って台所に行くと、台所の隣の居間で夕刊を読んでいた幸太郎に聞こえる声で、
「土手で浮浪者が死んでるんだってさぁ」と、言った。日本間にいる千佳子の虚ろだった目が、ぱっと開いた。千佳子の頭の中で、失われていた記憶が甦っていく。千佳子は、震える体を起こすと立ち上がり、昨日、首から下げられるように、長細い花柄のリボンを付けて完成した花のペンダントを、スカートのポケットに入れると、急いで玄関へ走った。
「ちいちゃん、どこいくの」
 千佳子が、台所の前の廊下を走っていると、紀子が答えるはずのない千佳子に言った。千佳子が玄関に向かって走って行く。紀子は、あせった声で
「ちいちゃんどこ行くの、まちなさい!」と言い、千佳子を追いかけた。幸太郎は紀子が捕まえてくれるだろうと思って、夕刊を読み続けている。千佳子は、紀子に捕まらないように、靴をつっかけて履くと、玄関の横にある自転車置き場から自分の自転車を出して乗り、サイクリングコースに向かって必死に自転車をこいだ。
「ちいちゃん、待ちなさい」
 玄関に着いた紀子は、急いでサンダルを履くと、走って千佳子の自転車を追いかけたが、千佳子の自転車の速さに付いて行く事が出来ず、途中であきらめて立ち止まった。  

 千佳子が、サイクリングコースを小屋がある場所に向かって、必死に自転車をこいでいる。
「ダーーーー」
 川原とサイクリングコース一帯には、連日降り続いた大雨のために増水した酒匂川の濁流の轟音が、鳴り響いていた。
「せっちゃんが、死んでるんだってよ」
 二人の自転車に乗った少年が、話をしながら千佳子を追い抜いていく。
 千佳子は、男の人にあんな事をされて、顔も見たくないほど男の人の事を嫌いになっていた。しかし、行く当てのない自分を小屋に泊めてくれた、やさしい男の人の記憶が残っていた千佳子は、本当に男の人が死んでしまったのかと、心のどこかで心配していたのであった。
 千佳子が、小屋のある場所まで来ると、小屋の周りに大勢の人が集まっていた。
「自殺なんだってさぁ」
「犬は、いい迷惑よね」
 集まった人達の声が、いたる所から聞こえてくる。千佳子は道の脇に自転車を止めると、集まっている人達の方に行って小屋を見ようとしたが、背が低い千佳子に小屋が見えるはずもなく、千佳子は、しかたなく人を掻き分けていった。千佳子が小屋が見える場所に出ると、小屋の前に二人の警察官が立っていた。
 男の人の死体を発見したのは、酒匂川沿いにある高校の男子生徒であった。この生徒は、サイクリングコースを通学路として利用していたために、学校に行かない日以外は毎日、瞬を見ていたのであった。そのために、この日の一週間ぐらい前から、怪我をしているにもかかわらず、小屋の前をうろうろしながら、自分に向かって吠え続ける瞬の姿に、いつもと違う何かを感じながら、小屋の前を通っていたのである。そして今日、野球の部活動で帰りが遅くなったこの生徒が、夕方頃、人気の少なくなったサイクリングコースを、一人で家に向かって自転車をこいでいると、また、鎖に繋がれた瞬が、小屋の前で自分に向かって吠えてきたのであった。この生徒は、その、日に日に痩せ細っていく瞬の痛々しい姿に耐えきれなくなって、自転車を降りて小屋に近づいて行くと、小屋の中から悪臭がしてきたので、中に誰かいますかと言って、扉を開けたのである。すると、小屋の中は、男の人が首の頚動脈を切った時に飛び散った血が固まって、そこら中黒くなり、小屋の奥に、腐りかけた男の人の死体が転がっていたのであった。それを見た生徒は、悲鳴を上げながら小屋の前に倒れ、しばらくその格好で震えていたが、なんとか立ちあがって自転車に乗ると、警察に連絡するために、近くの電話ボックスに向かって、全速力で自転車をこいだのであった。
 千佳子が小屋を見つめながら、立ち尽くしている。雨上がりの夕暮れの空は、茜色に染まっていた。千佳子は、小屋の中が気になり、小屋に近づいて行くと、定年まじかの年老いた警察官が、千佳子の方に寄って来て
「おじょうちゃん、こっから先は入っちゃだめだよ」と、言った。千佳子はそう警察官に言われると、警察官の顔を見上げながら、今まで出せなかった声を出して聞いた。その声は、なぜか広島訛りであった。
「おじちゃん、死んじゃったの」
「あぁ」
 警察官が、つぶやく様に千佳子に言った。千佳子は、そう言われると、後ろに下がってまた小屋を見つめた。その千佳子の目は、少し潤んでいた。警察官は、千佳子が後ろに下がるのを見届けると、小屋の前に戻った。そして、前を向いて男の人の記憶を辿った。
この警察官と男の人が出会ったのは、男の人が小屋に住み着いた頃、酒匂川の管理を県が行っていると知らない市民から、サイクリングコースの脇に、勝手に小屋を立てて住んでいる若者がいると通報を受け、会いに行った時であった。それからこの警察官は、何度も小屋に足を運び、仕事と住む所を世話してやるからと言って、男の人を社会復帰させようとしたが、男の人は、私はここでの生活が性に合っていますからと言って断ったのである。それでも警察官は何度も足を運び、男の人を説得し続けたが、説得するたびに、自分には入り込めない淋しい眼差しで断る男の人に、これ以上言い続けるのが心苦しくなって、説得するのを止めたのであった。
 この警察官が、男の人に何度も言い寄ったのには、理由があった。それは、生きていれば、ちょうど男の人と同い年の息子がいたからである。警察官は、断り続けた男の人にした自分の行為は間違っていなかったと、当時は思っていたが、男の人が死んでしまった今となっては、もっと言い続けて、無理やりでもいいから、男の人を社会復帰させておけばよかったと、後悔していたのであった。
 小屋の前に立っている警察官が、空を見上げて、生きていた頃の自分の息子と男の人の顔を思い浮かべている。その警察官の目には、涙が浮かんでいた。
 発見した生徒の通報を受けた、この、二人の派出所の警察官は、死体を確認しただけで、小屋には手を付けず、無線で小田原警察署に連絡すると鑑識などの応援を待っていたのであった。その二人の警察官が、死体を確認した際、死体のすぐ横にビニール袋が落ちていた。その中には、文字が書かれた五線譜が入っていたのであったが、まだ誰もその五線譜を見ていなかったのである。その五線譜には、走り書きで、次のような事が書かれてあった。
「ちいちゃんへ  僕は、いったい何のために純粋さを貫いてきたのだろう。ちいちゃんに、なぜあんな事をしたんだろう。ちいちゃん、本当にごめんなさい。おじちゃんは死んじゃうけど、最後に一つだけ、ちいちゃんにお願いしたい事があります。瞬の事、どうかお願いします。ちいちゃんごめんなさい。ちいちゃんごめんなさい。ちいちゃんごめんなさい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 小屋を見つめて立ち尽くしていた千佳子は、しばらくすると瞬を探して小屋の周りを見まわしたが、瞬の姿はなかった。小屋の近くの地面に打ちつけられた杭が、外れそうに立っている。千佳子は、人ごみを掻き分けてサイクリングコースに出ると、川原を見渡した。増水した酒匂川の泥水が、普段は見えている中州を覆い隠し、中州に生えている草木を薙(な)ぎ倒して流れている。千佳子は人気のない川原に向かって叫んだ。
「しゅんちゃん!」
「ワン!」
 千佳子が叫んだすぐ後に、サイクリングコースの一段下の道の方から、犬の鳴き声が響いた。背の低い千佳子が、サイクリングコースのアファルトの道を越えて、一段したの道が見える方に駆け寄って行く。千佳子は、下の道が見える所に着くと、声が聞こえた方に視線を向けた。すると下の道に、保健所のトラックが、千佳子の方に荷台を向けて止まっていて、その荷台に積まれた檻に、瞬が入れられていた。
「ワン!、ワン!」
 瞬が、千佳子に向かって吠え続ける。
「しゅんちゃん!」
 千佳子は、瞬に向かって叫ぶと、瞬と始めて小屋の前で会った時に登った道を走って下りて行った。
「ブゥーーン」
 瞬を乗せたトラックが、走り出す。下の道に着いた千佳子が、走り出したトラックを追いかけて行く。
「ワン!、ワン!」
 千佳子は走りながら、ポケットに入れておいた花のペンダントを右手で出すと、瞬に見える様に翳(かざ)して叫んだ。
「しゅんちゃん!、これあげるよぉ。しゅんちゃん!、これあげるよぉ」
 千佳子の頬には、大粒の涙が流れている。
「ワン!、ワン!」
 顔の左側を怪我している瞬が、檻の柵に顔を近づけ、千佳子を呼ぶ様に吠え続けている。
「しゅんちゃん!、これあげるよぉ」
 千佳子が、そう叫びながら走っていると、連日の大雨で出来た、深い水たまりに足を突っ込んでつまずいた。
「あっ!」
 千佳子が、声を上げて転んだ。すると、一段上のサイクリングコースから、達也の声がした。
「ちいちゃん!」
 会社から帰った達也は、千佳子を追いかけるのを諦めて家に帰って来た紀子と、偶然家の前で会ったのであった。そして紀子から、千佳子が川原の方に、自転車に乗って行ってしまったと聞き、千佳子を探して、川原の至る所に自転車を走らせていたのであった。
 達也が、乗って来た自転車を放り倒し、土手の斜面に生えている草を掻き分けながら、急いで下の道へ下りて行く。達也は、千佳子がうつ伏せになって倒れている水たまりに着くと、両手で千佳子の脇を持って立たせた。立ち上がった千佳子は、ぐしょぐしょに濡れた服のまま、達也に抱き付いて、泣きながら達也に言った。
「しゅんちゃんが、しゅんちゃんが」
 自分の娘の声を、久しぶりに聞いたせいで、達也の目には、涙が浮かんでいた。
「ちいちゃん、ごめんな。ちいちゃん、ごめんな」
 達也は、抱き付いている千佳子の頭を撫でながら、何度も同じ言葉を繰り返した。
「ワン!、ワン!。ワン!、ワン!」
 茜色の空の下、吠え続ける瞬を乗せたトラックは、千佳子の前から消えゆく様に、遠ざかって行った。




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