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▼ 第26回投稿作品 ▼


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 七月に入ると、真弓は、蛍田駅前にあるスーパーマーケットのパートに、行くようになっていた。達也は猛反対したが、自分がパートをするために達也の実家を出たのだからとゆう、真弓の強い意思に追いやられ、なくなく真弓がパートに行く事を認めたのであった。しかし、病院に通うほどノイローゼがひどいのだから、せめて回数だけは減らしてほしいとゆう達也の意見に、真弓も反対する事は出来ず、週三日だけ働く事にしたのであった。
 七月最初の良く晴れた木曜日、この日の三日前から、達也は、五日間の予定で、静岡の方に会社の出張で出かけ、真弓も朝から病院に行っていた。
 千佳子はこの日、一時間目の授業が終わって休み時間になると、机に座って絵本を読んでいた。すると河合先生が、千佳子の方に寄って来て言った。
「千佳子ちゃん、さっきピアノ教室の先生から電話があって、今日風邪引いちゃったから、レッスンお休みさせてほしいって」
「はい、解りました」
 千佳子はそう言いながら、少しドキドキしていた。河合先生は、それだけ千佳子に伝えると、何か用事があるらしく、足早に教室を出て行った。
 千佳子がドキドキしていたのは、学校から直接ピアノ教室へ行っている事が、ばれたかと思ったからであった。学校の決まりで、塾や習い事は、いったん家に帰ってから行かなければ、ならなかったので、最初は千佳子も、学校の決まりに従っていたのであった。しかし、家が学校から遠かった千佳子には、ばかばかしく思えるほど、多恵の家が学校の近くにあった事や、いっしょに帰る友達もいなかった事、そして多恵が、その日最初の生徒だった千佳子が家に着くと、すぐにレッスンをしてくれた事で、千佳子は、三回目のレッスンから、学校が終わると、直接多恵の家に行っていたのであった。この、千佳子が学校の規則を破っている事は、多恵も真弓も承知していた事であったが、この程度の規則を破る事に、親や親戚が目をつぶるのは、よくある事である。そのために電話した多恵も、家に電話してもつながらず、あまりの発熱に早く寝たいのでと言った様な、うまい事を河合先生に言って、千佳子が学校に行く前に電話出来ず、学校から直接来ているために、仕方なく電話したとゆう事実を隠したのであった。実際の多恵の容態はと言えば、熱はあるものの普通には起きれる程度で、多恵は千佳子の学校に電話した後、この日レッスンに来る生徒の親に電話すると、薬を飲んで寝たのであった。

「だ、る、ま、さ、ん、が、こ、ろ、ん、だ!」
 学校が終わって、千佳子がアパートの前に着くと、千佳子よりも年下の子供たちが、だるまさんがころんだ{日本の伝統的な遊び}をしていた。
「よしくん、今動いた!」
「くそぉー」
 千佳子は、子供達をかわす様にして、アパートの前を通りすぎると階段を登って部屋の前に行き、ドアノブを右に回した
「カチカチ」
「あれ、閉まってる」
 千佳子は、真弓が病院の帰りに買い物にでも行っているのだろうと思いながら、真弓がパートに行き出してから、また千佳子の首に下げられるようになった鍵を取り出して、ドアーの鍵を開けた。
「カチ」
 千佳子が、ドアーを開け玄関に入ると、靴を履く所に、母親がいつも外出する時に履いているハイヒールはなく、見たこともない男物の革靴だけがあり、へやの奥から何やら変な物音が聞こえてくる。千佳子は、不審に思い、足音を立てずに恐る恐る中に入って行った。
 千佳子が台所の入り口に着くと、いつも寝ている奥の部屋の戸が開いていて、そこから、千佳子には理解できない、男と女の声が聞こえてくる。台所にはその奥の部屋から聞こえてくる声と、開けられた窓から入って来る蝉の鳴き声が響き、蒸せるような熱気が漂っていた。千佳子が、台所の入り口から恐る恐る奥の部屋の方に近づいて行く。千佳子が部屋の前に着き、視線を部屋の中に移すと、あまりの衝撃に息を呑んだ。裸の真弓と、見た事のない裸の男の人が、重なり合って抱き合っている。千佳子は、しばらくその場に固まって目を見開き、呆然と二人を見ていたが、真弓の放心した眼差しが千佳子に向けられると、怖くなり、急いで玄関に行って、部屋を飛び出して行った。
 
 千佳子は、無我夢中で走った。つっかけるようにして履(は)いた靴も直さないまま、自分の記憶の中にある道を走り続けた。
 
 どれくらい走ったのだろう、千佳子はあまりの疲労に思わず足を止め、辺りを見回した。するとそこは、いつか優樹と釣りをしたひょうたん池が見える土手の上だった。千佳子は、その土手の上からひょうたん池を見て我に帰り、鼓動が鳴り止まない体を落ち着かせようと、その場にしゃがみこんだ。鮎が釣れる酒匂川とは対照的に、ひょうたん池に人影はなく、酒匂川に掛かった高速道路を走る車の騒音が、辺りに響いている。しかし、千佳子の鼓動は、その騒音よりも大きく、体中に鳴り響いていた。
 千佳子が、しゃがんだまま、しばらくひょうたん池を見つめていると、優樹との思い出が頭の中を駆け巡った。千佳子が、うつむいて涙ぐんでいる。その思い出は、今はもう話すことすら出来なくなった優樹との、楽しい思い出であった。千佳子が、スカートの裾で涙をぬぐい、うつむいた顔を上げて、またひょうたん池を見つめている。それから千佳子は、しばらくの間、引っ越してから一人も友達が出来なかった自分に優しくしてくれた優樹の事を思っていた。

 日が傾きかけた頃、ひょうたん池の岸にしゃがみこんで、水面を見つめていた千佳子に、釣り道具を持った白髪の老人が、話かけてきた。
「お嬢ちゃん、そろそろお家に帰りな。お母さんが心配するよ」
 千佳子は、そう老人に言われると、何も言わずに立ち上がり、土手の方へ歩いて行った。
 千佳子は、家に帰りたくなかった。それよりも瞬の所に行きたかったのである。しかし、男の人との約束を破って以来、瞬の所に行っていなかった千佳子は、どうしようか考えながら、日が傾くまで、ひょうたん池の水面を見つめていたのであった。土手を登りきった千佳子が、立ち止まってうつむいている。千佳子は、男の人に怒られるのが怖かったが、行く当てのない今の千佳子には、そんな事よりも、瞬に会いたいと思う気持ちの方が強く、体をサイクリングコースの方に向けた。

 千佳子が、瞬のいる所に着くと、鎖でつながれた瞬が、鎖の長さいっぱいまで千佳子に近づいて来て、しっぽを振って吠えた。
「ワンワン!」
 千佳子は、そんな瞬を見ると、今まで我慢していた物が一気に噴出(ふきだ)し、大声で泣きながら瞬を抱きしめた。
「しゅんちゃん、お母さんがねぇ・・・・、お母さんがねぇ・・・・」
 すごい勢いで抱きしめられた瞬が、千佳子の腕と、鎖が伸びきって、きつくなっていた首輪に、首を挟まれ、苦しそうにしている。
「ウゥ・・・」
 千佳子は、しばらくの間、もたれる様に、泣きながら瞬を抱きしめていた。すると、千佳子の大きな泣き声が聞こえたのか、小屋の中から男の人が出てきた。
「ちいちゃん、どうしたんだい」
 男の人が、瞬を抱きしめている千佳子の後ろに立って、泣いている千佳子をあやすような声で聞いた。千佳子は、その男の人の声で振り返ると、瞬から離れ、今度は男の人に抱き付いていった。
「おじちゃん・・・、お母さんがねぇ・・・・、お母さんがねぇ・・・・」
「ちいちゃんのお母さんが、どうしたんだい」
 男の人は、自分のお腹のあたりに、顔を押し当てて泣いてる千佳子の頭をなでながら言った。
「お母さんがね、知らない男の人と、裸んぼうで抱き合ってたの」
 男の人は、千佳子の話を聞くと、まぶたに力を入れ、瞳を少し潤ませながら、千佳子の頭をなで続けた。日が暮れ、あたりが少し暗くなり出した人気のない川原に、重なった二つの影が伸びている。男の人は、何も言えないまま、千佳子の頭をなでていたが、しばらくすると、何か思いついた様に、千佳子の体を自分から離した。そしてその場にしゃがみこみ、千佳子の両肩に両手を当てて言った。
「ちいちゃんに、いい物聞かせてあげるよ!」
 男の人はそう言うと、小屋に行き、中からバイオリンケースを取り出してきた。男の人が、千佳子の近くでバイオリンケースを開け、中から少し弦が錆びているバイオリンを取り出すと、弦の音を調節(ちょうせつ)している。
「ちいちゃん、これはおじちゃんが、学生時代に作った曲です」
 男の人は弦の調節が終わると、そう言って千佳子の前でバイオリンを構えた。そして、その学生時代に作ったと言う曲を弾き始めた。
「ターッラララララ、ターッラララララ、ラー」
 夕暮れの誰もいない川原を、バイオリンの音が包み込み、優雅な調べに揺られるように、草が風になびいている。千佳子が、立ったまま呆然とその曲を聴いていると、瞬が千佳子の側に寄って来て、千佳子の足元でお座りをした。男の人が、八小節のフレーズを子守唄の様に、繰り返し弾いている。しばらくの間その曲を聴いた千佳子は、少し落ち着いたのか、その場に座った。そして、隣でお座りしている瞬に手を回して、少し凭れると、目を閉じて男の人が奏でるバイオリンの音に耳をゆだねた。千佳子は、いつもピアノ教室で弾いている単調な旋律とは違う、男の人の曲に心を奪われていると、いつしか瞬にもたれ掛かって眠りに落ちていった。

 

 


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